月別アーカイブ: 6月 2011

生活道路は30キロ規制を

中央交通安全対策会議が第9次交通安全基本計画を決めました。
そのなかで、車道の幅員が5.5メートル未満の生活道路は最高速度を原則として時速30キロにすることがうたわれました。
私が生活道路の時速30キロ規制を議会で取り上げたのは4年前の2007年12月5日のことでした。
実は、前年の2006年9月25日に、公園に向かって歩いていた幼稚園児の列に自動車が突っ込み、4人の園児が亡くなり17人が重軽傷を負う事故があったのです。
そして、その時の加害者の車のスピードが60キロだったのです。
裁判では60キロが暴走だったのかどうかが争点となりましたが、結局は暴走だとはなりませんでした。
私には、第9次交通安全基本計画の幅員5.5メートルが妥当かどうか、たとえば住宅地なら6メートル未満ではどうなのかという気持ちが今なおあります。
しかし、ともかくも30キロ規制が進められることは素直に喜びたいと思っています。
現実には幅員が狭いにもかかわらず、速度制限のない道路がたくさんあることと思います。
今回の決定が、私たちの意識の中で交通安全をさらに身近にすることを切に願うものです。

三番瀬消える?

6月14日、三番瀬の状況を見に市川、浦安を訪ねました。
本来あるべきところに三番瀬はなく、「海」になっていました。
東日本大震災は大変な被害をもたらしましたが、こんなところにもと思いました。
市川では写真にあるように南行徳漁協の土地の沈下があり、漁協の建物が大きく傾いていました。
浦安では三番瀬の様子だけでは無く、日の出海岸護岸の崩れのひどさや市内の液状化の復旧状況を視察させていただきました。
明日15日から6月議会が始まります。
5月臨時会で震災対策を集中的に審議しましたが、6月議会もどうしても比重は地震対策となることでしょう。
地震以外にも重要な課題はありますので、あくまで県民の目線に立って代表質問にのぞみたいと思います。

防災ガラパゴス論

6月11日の朝日新聞夕刊に厳しい記事がでていました。
『津波で水没 米国式裏目』という見出しです。
記事では「東京電力福島第一原発が40年前、竜巻やハリケーンに備えて非常用発電機を地下に置く「米国式設計」をそのまま採用したため、事故の被害が大きくなったことが関係者の証言でわかった。」というのです。
この記事が事実かどうかはわかりませんが、40年前であればさもありなんと言う気もします。
すると、交通混雑で間に合わなかったという説明だった電源車も、もしかしたら電圧や周波数も米国方式で使えなかったというのが真実だったのかも知れません。
思い当たることがもう一つあります。
京葉工業地帯を有する千葉県では石油コンビナートなどが火災を起こした時の対処の訓練を行います。
その際、泡放射の車を出すのですが、それが本当に役にたつのかという疑問です。
東日本大震災で、震源から相当離れているにもかかわらず、東京湾岸はひどい液状化被害を受けました。
道路は波打っていますし、震源によっては津波の恐れもあります。
そんな状況下で泡放射の車を出すことが可能なのか?と思うのです。
この泡放射砲の車も所詮欧米の発想です。
地震大国、津波大国というわが国の特性を真正面からとらえて、欧米の技術を超えるわが国自身の防災技術を磨かねばなりません。
防災技術は、それこそガラパゴスこそべストと思うのです。

酷すぎる現実(東北にて)

東北から帰ってきました。
ただただ何もないのです。
人がいて、家があり、町があった場所に何もない荒野が広がっているのです。
海に沿ったすべての集落では例外なく津波が襲ってきました。
ここだけは助かっているというところがないのです。
最後に仙台市若林区の住宅地に伺いました。
新しい住宅地で立派な家々が建ち並んでいたことでしょう。
仮にここに今、津波が来たとしたら自分はどうするだろうと考えました。
どこまでも平地です。
まず間違いなく津波にのまれていたことでしょう。
この状況で助かるはずがありません。
仙台東部道路まで2キロ以上あります。
8メートルの波が来たとしたら2階にいても助かりません。
今ならばどういう構造物があればよいかはわかります。
今ならば。

住民投票は運用こそが肝要

今朝(6月8日)の東京新聞に野田市が『住民投票条例案提出へ』という記事がありました。
6月定例会に常設型の条例を提出するそうです。
私は、非常に重要でかつ必要な条例だと思います。しかし、その一方で運用は一筋縄ではいかないとも思っています。
たとえば松戸市で問題になった国保市立病院の建替え問題です。
現地建て替えか、移転建て替えかという住民投票をやるべきという意見がありました。
住民投票をしてもとくに問題がないように思えます。
しかし、実はその市立病院をどういう病院にしたいのかという市民あげての合意がないと正確な判断ができないはずなのです。
600床の総合病院が必要だということであれば、コストの面でも技術的にも移転建て替え以外には難しいという結論になるのでしょう。
これは先の松戸市の検討委員会の答申で明らかです。
しかし、仮に極端な話ですが、病院ではなく診療所でよいのだということであれば、わざわざ他に土地を求めて移転する必要はないでしょう。
このように病院の規模や医療レベル、医療内容がまず議論されて、市民の間で「こういう病院にする」という合意ができて、はじめて「現地」か「移転」かの住民投票ができるのではないでしょうか。
その途中の話を飛ばしてしまって、いきなり「現地」か「移転」かの住民投票をしてしまうと誤った判断になりかねません。
市民の皆さんが市立病院の将来像について同床異夢であったとすれば、住民投票条例がかえって市民に不利益をもたらすことになってしまいます。
したがって、住民投票は必要な仕組みだと思うのですが、その運用については徹底的な議論があってはじめてなされるべきものなのだと思うのです。