月別アーカイブ: 9月 2013

松戸の危ない踏切

冠水の危険や台風の危険について書いてきました。もう一つ意外と知られていない松戸の踏切について書いておきたいと思います。
困った踏切のパターンは4つあります。
「開かずの踏切」「自動車にとってボトルネックになっている踏切」「歩行者にとってボトルネックになっている踏切」「歩道が狭隘な踏切」です。
このうち、陸上自衛隊松戸駐屯地の松戸から鎌ヶ谷へ抜ける「元山3号」踏切は「開かずの踏切」です。
「歩道が狭隘な踏切」は、六実4丁目と5丁目の境目の「野田線第272号」踏切、常盤平駅そばの「八柱5号」、松戸市役所そばの「松戸3号」です。
松戸市内で最も緊急に対策を講じなければならない踏切は5つあります。
まず、新京成の3つの踏切。すなわち上本郷駅そばの「上本郷1号」、松戸新田駅そば「松戸新田1号」、みのり台駅そばの「みのり台1号」、そして総武流山鉄道の新松戸駅そばの「第5号の2」です。
これら4つの踏切は、「歩行者のとってボトルネック」になっており、かつ「歩道の狭隘な踏切」です。
また、「自動車にとってのボトルネック」であり、かつ「歩道の狭隘」な踏切が、六実駅そばの野田線第270号」であり、これらの踏切を渡る際には、くれぐれもご注意をお願いたします。

台風は小型も危険

9月16日午前9時過ぎに『台風18号災害対策本部』を立ち上げ、公明党千葉県議団で集まりました。
北朝鮮拉致問題の日比谷集会と重なったため全員ではありませんでしたが、刻々と千葉県に近づく台風の対応に当たりました。
県内各地の情報を集めるとともに、3名で大網白里市、九十九里町、白子町の海岸や河川堤防を巡回しました。
サーファーらしき人たちも何人も無言で海を見つめています。昨日、茅ケ崎でサーファーが亡くなりましたが、本当に慎重であってほしいと思います。
『台風は波から始まり波に終わる』と言うように、台風が来る何日も前から波が荒くなり、台風が去ってからも数日は波が荒いのです。
また、今回の台風18号は大型でした。大型というと危険というイメージがあります。大型であれば暴風圏や強風圏が広範囲なのでそれだけ長時間危険となります。
一方、小型というと大型よりも危険性が低いというイメージですが、そうではありません。「大型」「小型」という台風の半径と、「強さ」である最大風速は無関係なのです。
したがって、小型で強い台風というパターンは、天気の急変があるなど決して侮れない危ない台風なのです。

松戸の道路冠水危険個所

深夜から明け方にかけてかなりの豪雨でした。今も東葛地域は大雨洪水警報が出されています。
大雨警報プラス洪水警報はゆめゆめ侮ってはならない警報です。
そして、雨だからということで自動車が利用されがちですが、アンダーパスの冠水には細心の注意が必要です。
万一、冠水に突っ込んでしまえばドアを開けることはできません。
バッテリーが水でダメになれば窓も開けられず、水死する事例が少なからずあるのです。
松戸市内の道路で非常に危険な冠水箇所が6か所あります。
一つは『五香立体』。以前は五香駅の踏切だった場所です。二つには戸定邸下の『宮前アンダーパス』
残りの4つは新松戸地域に集中しています。
幸谷459番地先からJR常磐線をくぐる通称『幸谷じゃんけん道路』
新松戸駅から大へー方向へ向かうところの『新松戸アンダーパス』
サンライトパストラル六番街の『忠仲アンダーパス』
横須賀小学校からとうかえで通り方面へ向かう『指向アンダーパス』です。
松戸市ではありませんが、『南流山駅前のガード下』も同じく危険個所です。
これらは特に危険ということであって、他のところが大丈夫という意味ではありませんのご注意ください。
(写真は、危険個所の一つである流山市の馬場下ガード。こんなに平坦でも危険個所なのです)

自分基準での固定観念

今日の日経新聞文化面は『東西哲学の対話 光再び』という表題で慶応義塾大学の名誉教授・井筒俊彦先生のことが取り上げられていました。
司馬遼太郎の『十六の話』(文春文庫)のなかに井筒先生との対談が収められており、それを読むと人間というものの偉大さに思わず頭が下がります。
いきなり話が飛びますが、釈迦滅後100年以上たって釈尊の教えをまとめよう(?)ということで、仏典結集が行われました。
釈尊の教えは文字になっていませんので、弟子のアーナンダーが「私はこう聞いた」という教えを語ります。それを周りにいる教団幹部が「確かにその通りだ」と認めたものを正統な釈尊の教えとしました。
これが仏典結集ですが、私は正直なところそんなことができるのかと思っていました。
しかし、井筒先生や、特に井筒先生にアラビア語を教えたムーサー・ジャールッラーハ氏の話を伺って、仏典結集は事実だったと確信しました。
自分の考えや想像力がいかに貧弱なものか、それを基準に考えることがいかに危険かということを思い知らされたのが、『十六の話』を読んだ時の反省でした。
今日、久しぶりに井筒俊彦という名を目にして、改めてその時の反省を思い出したのでした。