Monthly Archives: 5月 2009

議員は民意をすくいあげるプロでありたい

臓器移植法案は、5月22日の衆議院厚生労働委員会でD案の趣旨説明が行なわれ四つの法案が出そろった。
いよいよ国会内で多数派工作が激化していくわけだが、これが国民あげての議論になっていないのはどうしたことだろう。
前回の改正から10数年もたっているのに実際の移植手術はあまりにも少ない。したがって、私たちの生活にとって身近だとは到底いえない。
この身近であるか身近でないかというのは関心の高さに決定的に影響するので、これをもって一般社会人を責めるのは酷というものだ。
むしろ選択を迫られる国会議員の側が国民的盛り上がりの乏しい中でいかに民意を救いあげるかが問われる。
民意をすくい上げるプロの技をここで見せて欲しいのである。
結論的にいって、私は目の前の命を救いたい。これが多くの国民の素直な感覚であると思う。
だからこそ、一度も会ったこともない他人のお子さんであっても「移植手術にカンパを!」と言われれば1億円を越える寄付が集るのだ。
単なるお金ではない。そこには何とかその子を助けてあげたいという思いが凝縮しているのだ。
その一方で、その子を助けるためになぜそんな高いお金がなければならないのか?
なぜわざわざアメリカまで行かねばならないのか?
アメリカに行かねば助からないというのなら1億円の寄付を集められない国の子どもたちはどういうことになっているのか?
アメリカ人の臓器を移植して、大金を持ってきた(外国人であるところの)日本人の子どもを助けることについて、同じ病気のアメリカ人の子どもやその他の国の子どもたちはどう思っているか?
そういった疑問に対しての議論はほとんどなされていないような気がする。
日本に生まれた子どもは、たとえ臓器移植が必要だったとしても移植手術はできないことになっている。
法律によって15歳未満の子どもの臓器提供が禁じられているからである。
もし、この法律が民意に支えられているとするならば、移植手術を受けに渡米することはおかしな話である。
15歳未満の子どもで臓器移植が必要な子は可愛そうだけれども死になさいという法律なのだから。
ところが現実には、渡米する子どものために善意のカンパが集るのである。
つまりこの法律が国民的合意ではない証左と思えるのである。
どうか今回ばかりは、国会議員たちには公平な目で、理屈や中途半端な論理ではなくぜひ民意をくみ上げる努力をして欲しいと思う。

大事なものを見落とすとき

平成20年度の国の第二次補正予算の中に見落としていたものがあったことは大きな反省材料である。
それにしても、なぜ見落としてしまったのだろう。
理由の第1は、とにもかくにも失業を止めねばならない という意識が強すぎたことにある。
多くの交付金や基金の中で「ふるさと雇用再生特別交付金」「緊急雇用創出事業臨時特例交付金」などをどう活用するかと言う点に意識が偏ってしまったのだ。
理由の第2は、雇用を生み出すべき中小企業の倒産を止めねばならない という意識が強すぎたことである。
保証・貸出枠の30兆円への拡大が実現したり、金融機関への資本注入といったことに目が行ってしまったのだ。
理由の第3は、定額給付金の支給という生活者支援策が大きすぎて、自分の意識の上でそれに幻惑されてしまった気がする。
理由の第4は、第二次補正予算の成立が本年の1月26日であり、かつ新年度予算案が動き出す直前だったことから、2月補正を組むのにあまりにも時間的余裕がなかった。やはり正直なところ慌てていた。
もちろん、これらはあくまで言い訳に過ぎず、県内各市町村まで含めた予算に目が行き届かなかったのは紛れもない事実だ。
今後の戒めとして厳重に受け止めていかねばならない。
では見落としたものとは何か?
それは障害者自立支援対策臨時特例交付金特別対策事業である。
この事業群はおおよそ25項目にわたっているのだが、その中の『(20)その他の法施行に伴い緊急に必要な事業』の『(エ)視覚障害者等情報支援緊急基盤整備事業』がそれだ。
事業概要には「市町村等が行う情報支援機器(拡大読書器、テレビ電話等)の整備及び音声コードの研修及び普及、聴覚障害者が所有している「聴覚障害者用情報受信装置」の地上デジタル化に伴う経費について助成する。」と書かれている。
せっかく1月30日に議会幹事長会を開催したのに実にもったいない話である。これに気がついていれば施策展開がかなり違った形になっていただろうと悔やまれる。
しかし、まだまだ間に合う。これから挽回だ。
再度、補正予算の中身を精査しながらさらなる県民福祉の充実に着実に手を打っていきたい。

逃げるときは一目散に

東京女子大学教授の広瀬弘忠氏のレクチャーを受けた。
「人はなぜ逃げ遅れるのか」という避難行動のメカニズムについてである。
一番興味を覚えたのは、「世界一受けたい授業」というTV番組の中で行ったという実験だ。
これは、ある一室の円卓に被験者を座らせておき、しばらくしたところで火災報知機のベルを鳴らす。
その1分後に消防車のサイレンを流し、さらにその一分後に室内に煙が進入し始めるのだ。
その際、被験者はいつの段階で異常に気付き、避難行動をとるかという実験である。
実験のパターンの一つは、円卓に10人ほど座らせておき、何も知らない被験者はたった一人。あとの9人はこれが実験だということを了解の上でサイレンが鳴ろうが煙が入ってこようが何の反応もせず座っているというもの。
このとき被験者は、煙が部屋に充満しているにもかかわらず結局避難行動をなかなか取ろうとしなかったのである。
これは1950年代にソロモン・アッシュが行なった集団思考の実験そのものである。(マッテオ・モッテルリーニ著「世界は感情で動く」紀伊國屋書店P215)
アッシュは、長い線、短い線、中間の長さの3本の線を書いた紙を用意する。
そうして、中間の長さと同じ長さの線を別の紙に書いて、この線と同じ長さの線はどれかと尋ねる。
真ん中の線である。誰も間違うものはいない。
ところが9人の「さくら」が長い線だと答えると、たった一人の被験者は自分が間違っていたのかと思い「長い線」だと答えるのである。
見れば明らかに長い線ではありえないのに、自分の見ているものも信じられなくなってしまうのだ。
広瀬氏の実験もアッシュの実験も非常に興味深いものがある。
しかし、その実験によって導き出される結論は興味深さを通り越して後味の悪いものに他ならない。
すなわち、逃げるときは人を信用せずともかく一目散に逃げよ。

銚子のリコール選挙

5月17日執行の銚子市長選挙の開票結果は以下の通りであった。
(表組み)
野平まさくに 15289票 当選
岡野としあき 7969票 次点
茂木かおる 4256票
石上みつやす 3151票
松井みのる 2709票
たかせ博史 1314票
リコール前の先の市長選で敗れた野平氏が勝ち、先の市長選で勝った岡野氏が敗れ、岡野氏のリコールを推進した陣営は候補者を一本化できずに全員敗北という結果であった。
この選挙にいたる流れをもう一度振り返ってみよう。
リコール前の2006年7月23日の市長選での争点は、病院を存続させるか否かであった。
そして存続させることを公約した岡野氏が13235票で当選し、野平氏は12756票で敗れた。
その差わずか500票弱。これが3年前のことである。
つまりその時点では銚子市民の民意は病院存続だった。
ところが、岡野氏は野平氏と同様に病院の経営改革ができず、このままでは銚子市財政の方が危機に陥るということで病院休止という苦渋の決断をする。
そこでリコール運動が起り、解職賛成が20958票、反対が11590票でリコールが成立する。
つまりこの時点、すなわち2009年3月29日においても銚子市民の民意は(岡野氏の責任問題はともあれ)病院存続だということが言えると思う。
そうしてこのたびの5月17日の投票の結果が上記である。
単純化して言えば、2006年の市長選における岡野氏が獲得した13235票のうち5266票が岡野氏から逃げた。
そして半分強が野平氏、半分弱がリコール推進派に流れたという構図である。
これは一体何を意味するのかである。
リコール推進派候補4人の得票総数は、岡野氏を3461票上回ったものの野平氏には3859票下回った。
これは、病院誘致を実現できるのはリコール推進派ではなく野平氏だと銚子市民が判断したことを示しているように思える。
政治は先ずビジョンの明確さが求められる。それが今回の場合は病院誘致であった。
そしてそれ以上に、政治に求められるのがそのビジョンを実現できるか否かの実現力だということを明確に示した選挙だったように思うのである。

小沢・鳩山体制が鳩山・小沢体制になっただけ?

昨日の民主党両院議員総会は鳩山氏を代表に選任した。
小沢氏に見られる田中派的な部分からの脱却は結局なかった。
朝刊各紙は一斉に新代表に対する注文や期待を書いたが、私には二つの点が目を引いた。
一つは、読売新聞特別編集委員の橋本五郎氏の『小沢を克服せよ』という署名記事である。
鋭い分析と文章のうまさはさすがプロだと納得させれた。
二つには、朝日新聞がほぼ応援一色の論評に丸まる一面を費やしたことである。
ここまでやるかという応援振りに驚かされた。
私は、今回の党首選は少なくとも国民や民主党員には岡田氏支持が多かった見た。にもかかわらず民主党は鳩山氏を選んだ。
つまり民主党は民意に反した。民意に反せざるを得ない事情があったというべきかも知れない。
民意が明確でありながら、それに従えないということは民主主義を党名に掲げる(多分?)民主党にとってこれ以上なく皮肉なことだ。
これまで民主党は、麻生総理に対して「民意を問うていない」と批判してきた。そしてそれは否定しようのない事実だった。
しかし、今回の党首選で、この台詞がそっくりそのまま民主党に帰ってくるのである。
なぜそんな当たり前のことが分からないのだろう?