月別アーカイブ: 2月 2009

人口ダイヤモンドの行く末(その1)(第258回)

こういうことを書き出すときりがないのであるが、一応いくつかの分野については書いておきたい。したがって(その1)となる。
人口ダイヤモンドは私の造語である。
1970年ごろまでは年齢と人口の関係は、まさに人口ピラミッドというように年齢が上るほど人口が少ないと言う二等辺三角形だった。
ところがその形がいびつになり、年齢が低い層と高い層の人口が少ないという、まん中が膨らんだ形になった。これを釣鐘型と言ったりした。
これが2030年くらいになるとまさにダイヤモンドのような縦長の菱形になるのである。
こういう人口ダイヤモンド社会にあっては、人口ピラミッド社会の常識は通用しないことをまず認識しなければならない。
たとえば現在のような世界的な景気後退局面では、経済評論家やマスコミはこぞって『外需主導の経済ではなく内需拡大策を取れ』といった発言をする。
この主張は間違ってはいないが、少子化高齢化が進み人口減少社会となった人口ダイヤモンド社会にあってはその実現は簡単な話ではない。
マーケット自体がしぼんでいく現実を無視した議論は単なる掛け声である。
「内需を拡大せよ」という主張は、あたかも外需主導を推進し内需をないがしろにしてきたであろう政府与党に対する批判といった政治的スローガンに使われている感すらある。
むしろ、1億人と言う少なくない規模のマーケットが存在してきたがゆえに、これまでは国内だけの競争で事足りていたのだが、いよいよ海外市場へ進出せざるを得なくなったのだという共通認識を持つことの方が余程大事である。
つまり、長期的トレンドは外需中心とすら言えるのである。
あまりにも急速で世界的広がりの景気後退に目を奪われて、この至極自然な結論を忘れて何でもかんでも「内需、内需」という大合唱が始まってしまったことに当惑すら覚える。
内需も大事だが外需はさらに大事なのであり、こういうときこそ冷静さを失うことのないようにすべきなのである。

人口ダイヤモンドの行く末(その2)(第259回)

さて、国内市場の縮小は自明といってよい。
そのなかで、企業や産業はどう生き延びていくのだろうか?
製造業は人口が増えている世界市場を相手にすることができるがサービス業は国内で生き延びるしかない。
一方、少子高齢化は社会保障制度を維持するコストを押し上げる。これも自明のことである。
高齢化が進めば医療費や介護費や年金財源も増大する。
しかも負担すべき世代は少子化によりどんどん減少していく。
こうした条件から導き出される結論は、公費負担には限界があるという一点である。
医師不足対策や病院経営の厳しさから「日本はGDPに占める医療費が少ない」と言う議論がしばしば出てくる。
しかし、その前に日本は医療費に占める公費負担が多いか少ないかと言う観点での議論がなされるべきだろう。
他の先進国に比べて日本の公費負担が少ないはずがない。
すると日本の医療費における特殊性は公費以外の負担の少なさが問題だと言うことになる。
今、千葉県内の医療界では進んだ医療技術をアピールすることにより海外からの患者を呼び込もうという機運が高まりつつある。
実際に、相応の有力病院も出現し始めた。
これまで外国人患者と言えば、治療費を払えず病院や国や自治体の持ち出しという構図が多く見受けられた。
それを逆に収益の柱にしようと言うのである。
非常に野心的な試みである。そのためには、わが病院はこの分野がすぐれている、群を抜いているという指標を情報公開するという高いハードルが存在している。
しかし、今後も質を落さずに医療体制を維持していくためにはこうした発想しかないように思われる。
そして、萎む国内市場においてサービス産業を活性化する大きなヒントがここにあるように思われるのである。

人口ダイヤモンドの行く末(その3)(第260回)

国内市場の縮小が自明となると雇用の問題はどうなるだろうか?
これは非常に難しい。
いまは「非正規雇用を正規雇用に」という大きな流れがある。
マスコミや評論家もキャンペーンのように主張している。
ここで、正規雇用についてもう少し掘り下げて考えてみたい。
「非正規雇用を正規雇用にせよ」という主張の裏には、正規雇用になれば企業は簡単にくびにできないだろうという発想がある。
それはその通りなのだと思う。しかし、問題はそれがどういうことを意味するかである。
まず、雇用に対して企業が慎重になることはあるだろう。しかし、一方で少子化がすすむのでこの点はクリアできたと仮定しよう。
給与はどうだろうか?
仮に20歳で就職して60歳までの40年間働くとして、毎年毎年給料が上るだろうか?
これは、毎年上ると考えている者はいないだろう。地方公務員給与でさえ下る時代である。
したがって、給与は上るかどうかわからない。むしろ下る可能性も十分あるという認識を持たねばならない。
さらには、もっと根本的にそもそも40年間その企業が存続するという可能性はどれほどあるだろうか。
超一流企業ならともかく、相当の大手企業ですら生き残りは難しいのではないか。
つまり「正規雇用をせよ」という主張の裏には、正社員となれば毎年給与はアップするし、企業は倒産せず同一企業でちゃんと40年間定年まで勤め上げることができるという暗黙の了解があるのではないか?
しかし、給与も企業の存続も現実には非常にあやふやな話なのである。
国内市場の縮小はますます企業の生き残りを難しくするだろう。
すると、少子化により就職者の数が減り仮に企業に対する正規雇用の義務付けに成功したとしても、それで雇用問題が解決という単純な話ではないように思える。
雇用の問題は実に悩ましい。税制から株式市場の整備からセーフティネットの強化まで、実に多方面からアプローチしなければならない問題なのである。

買うものがない時代(第257回)

買うものがない時代と言うのは不幸な時代でもある。
かつてのインドはイギリスから買うものがなった。イギリスは売るものがなかった。しかし、イギリスはインドの紅茶がほしい。インドはイギリスのもので欲しいものがない。
時代が時代で、なおかつこういうケースになれば、力づくで買わせるということになり、その結果として植民地化ということになる。
正確性はかけるが図式的に言えばそういうことになる。
中国も同様で、イギリスは中国に売るものがなく、結果として中国人にアヘンの習慣を植え付けるということになる。
買うものがない時代が不幸だと言う意味はこういうことである。
私は欲しいものがあまりない人間なので、こういう時代にあっても特に不幸を感じていないが、売る側の企業や商店にとっては大変な時代である。
もし仮に、腕づくで無理矢理買わせることができる時代・社会であれば、私と企業・商店の関係もインド・中国とイギリスの関係になっていることだろう。
もちろんそんなことはできないので、企業・商店はお金をかけてテレビやインターネットでCMを打つわけである。
さて、視点を変えて日本と言う国を見たらどういうことになるだろうか。
日本としては買いたいものは山ほどある。
たとえば、原材料やエネルギーとしての「資源」も買いたい、「食料」も買いたい。
一方、資源国や食料輸出国も売りたいと念願している。
そして、国と国との経済の強さと言うのは相対的なものなので、たとえ日本経済が弱まっていてもそれらの国々が日本よりもさらに弱い状態であれば、結果として日本経済は強いことになるのである。
すると円が強い「円高」の現在、日本のとるべき戦略はきわめて単純な結論となる。
資源や食料の手当てを今のうちにしっかりとつけておくことであり、間違っても破綻した外国の金融関係企業を買うことではない。

心の右傾化(第256回)

戦争が悲惨であればあるほど反省は深い。
これは戦争の勝ち負けには関係なく、どの国においてもそういうものだと私は思う。
常に勝ち続けていたアメリカがベトナム戦争で苦渋をなめたとき、やはり社会の何かが変ったはずだ。
今回のアフガンやイラクでのアメリカの蹉跌は、黒人大統領の誕生と言う画期的な出来事に大きく影響しているはずだ。
翻ってわが国はどうだろうか?
終戦後60年以上たった。
喉もと過ぎれば熱さを忘れるではないが、戦争の反省も相当薄らいできていて不思議はない。
自衛隊の制服組のトップが日本は侵略国家ではないと主張し、それに対して日本社会はかつてのような拒否反応を起こさなかったように見えた。
自衛隊も国際貢献としてイラクやインド洋などで国外活動をするようになった。
今後、アデン湾へ派遣されることにもおそらく国民は理解を示すだろう。
私自身、それら自衛隊の活動は正しいと思う。
しかしその反面、戦争の反省が薄らぎすぎてもいけない という意識がつねにどこかにある。
一方、われわれの隣国はどうだろうか?
国家の総力をあげて核を持とう(持った?)とする国がある。
軍事費を増やし続け、アメリカに追いつけとばかり自力で大型空母を建造しようという国がある。
これも反省の薄らぎなのだろうか?
経済発展は人々の生活を豊かにするだけではなく、かえって多くの人々を苦しめることもある。
今は内政に本腰入れて取組むべきときなのだが。