Monthly Archives: 3月 2008

至難のビジネスモデル(第186回)

新銀行東京はどうあればよいのだろうか?
他行と同じように利益を上げればよいと言うわけではあるまい。そうであればわざわざ都がつくった意味が無い。
他行から融資を受けられなかった企業に融資しようと言う銀行だったのではないか?
そうであれば当然貸し倒れリスクは増えるのだし赤字は避けられない。
おそらく新銀行東京に望むものは、中小企業に融資しながらそこそこに損失を抑えてほしいというものではないか。
そうであるならば、リスク管理には最優秀の人を揃えなければならない。
他行のエース級が必要だ。この人材の給与を惜しんではならない。
その一方で経費をぎりぎりまで削減することである。少なくとも他行と同じ水準ではだめだ。
東京都という信用力から店舗の質は落せる。
そして、有意義な仕事をしているのだからということで、上に立つ人たちほど他行より給与水準を落す。
以上のことをきっちりと実施できるかどうかだと思う。
あとの気がかりは、今後の金利動向ということになろうか?

世界遺産の仕掛け人は?(第184回)

『世界遺産』という発想はなるほど秀逸だった。
世界遺産登録によって、急激に観光客が増えればむしろ環境保全が難しくなる。
そういうマイナス面はあるにしても経済の活性化に大きく寄与している事実は認めざるを得ない。
また、経済の活性化によって初めて保全可能となった世界遺産もあるのかもしれない。
したがって、差し引きしてもかなりのプラスであることは間違いない。その意味で実に秀逸なアイデアだった。
仕掛けとはこうあらねばならないと思う。
この発想をひねり出した人?チーム?が誰だったのか知りたいものである。
そして、この世界遺産登録によって一体誰が一番儲けているのか、非常に気になるのである。
考えすぎというものだろうか?

信頼社会的哀憐作業(第183回)

昨今の犯罪たとえば「振込め詐欺」や「食品偽造」などを見ていると、いまさらながら信頼社会の怖さを思う。
日本という国はモノを定価で売買する国だ。
それはおそらく島国ないし移動の少ない閉ざされた社会の中でひとたび信用が失われては相手にしてもらえないと言う風土のなかで自然に育まれてきた慣行だろう。
業者間の取引でも、中国人社会のように仕入れ商品を一つ一つ重量があっているか、仕様が間違っていないかなどといった確認作業は行わない。買うほうも売るほうも信用第一に行動様式が統一されている。これがジャパンスタンダードなのだ。
ところが昨今の犯罪は、このジャパンスタンダードを逆手に取っている。そこが恐ろしい。
食の安全ということに絞って言えば、北海道の食肉卸会社「ミートホープ」のような業者の出現がそれを端的に物語っている。
そこで思うのはJAS法である。実はミートホープは同法違反ではなかった。
JAS法違反に問えるのはあくまで消費者に直接の被害や不法行為が及んだときであって、ミートホープが卸として業者に対して不法行為を行ったとしてもJAS法では裁けないのである。
これもまた業者同士の取り引きにおいてはお互いに不法行為をしないものと言うジャパンスタンダードが思想の根底にあるのだと思う。
しかしながら、そんな麗しい関係とは決別しなければならない時代となった。
今後、われわれはジャパンスタンダードを一つ一つ見なおすという、コストばかりかかる悲しい作業をしていかねばならないのであろう。

信古代日本の道路事情(第182回)

古代交通研究の第一者である木下良先生のお話を伺った。
すくなくとも大宝律令、養老律令の時代すなわち紀元700年前後には、すでにわが国では相当程度の道路整備が進んでいたと言うのである。
「都と各地の国府を結んで、直線路線をとる計画的大道(幅9?12メートル)の駅路が敷設され、30里を基準に一般集落とは別に計画的に駅屋を設置し、中中戸の駅戸を揃えて一駅戸から駅子5?6人を出した。駅馬は緊急連絡の馳駅のほか、公文書の逓送など主として通信連絡に用いられたが、遠国の朝集使など一部官使の乗用にも使われた。(駅制)」
何より驚くのは、都と国府、国府と国府の間に駅を定め、それらが最短距離の一直線の道路で計画的に結ばれていたということ。
その道路は、9メートルから12メートルというかなりの幅員で、30里(約16キロメートル)ごとに駅屋が設置されていたということ。
そして、駅子に5、6人の人員を出し、馬を用意し、宿泊や食料の用意をし、となれば、古代から道路というのものは国の成り立ちにきわめて重要な役割をはたしてきたことがわかる。
当たり前と言えば当たり前のことではあるが、道路計画の重要性もまた今も昔も変わらないようである。

閉塞感のネットワーク(第181回)

3月19日号のニューズウィークに実に不気味な事件が報じられている。
英国ウェールズの炭鉱の町・ブリッジエンドで13ヶ月に17人の若者が自殺したというのである。
2007年1月5日にデール・クロール(18)が廃屋の倉庫で自殺。そこへ警官を案内した友人のデービッド・ディリング(19)が2月に。その1週間後に二人の共通の友人であるトマス・デービス(20)が公園で。
このような自殺連鎖が1年以上続き、今年の2月19日に17人目の遺体が村の遊び場で発見された。
この報道で、私が何よりも不気味だと思うのは、彼らが共通して、あるSNS(ソーシャル・ネットワーク・サービス)に属しているということである。
わが国でもネットで知り合った若者たちが集団自殺する事例が時折あるが、英国の事件も同じ線上の問題に思える。
今回の英国の事件は、自殺者が15歳からせいぜい20歳までの若者ばかりである。
普通に考えれば、自らの無限の可能性を思い、活力に満ち溢れ、人生楽しくて仕方が無い世代であってもおかしくない。
それが、簡単に死を選ぶのである。
もしネットがなかったら連鎖にはならなかったかもしれない。マスコミが盛んに報道しなければ17人まで広がらなかったかもしれない。
それはそうなのかも知れない。しかしそんなことよりも、先進社会に生きる若者のどうしようもない閉塞感をどうすれば払拭できるのか、その解答を出せないことがやるせないのである。