月別アーカイブ: 3月 2013

道州制推進フォーラム

時事通信ホールで行われた『道州制推進フォーラム』に参加しました。
自民、民主、維新、公明、みんなの5党の代表者によるパネルディスカッションで、わが党のパネラーは、遠山清彦道州制推進本部事務局長でした。
道州制の実現にリアリティを持ちたいという考えで参加しましたが、残念ながら私がこれまで本ブログに書いてきた疑問は解決できませんでした。
それでも道州制を推進する中で、地方分権を一歩も二歩も進めようという考えを固めました。
フォーラムの終わりころに、手渡されたアンケートを記入しました。
そのアンケートの設問のなかに、私の持っている疑問がすべて例示されていて、やはり誰しも同じ事を解決困難と考えていることが再確認できました。
最大の問題は、このような明治維新以来の大改革にもかかわらず、国民レベルの『熱』がほとんどないという点です。
圧倒的な国民運動になればこその大改革ではないのか、という思いがあります。はたして国民が望んでいる改革なのか、そうでなければ実現するはずがありませんので。

かくも重き「専決処分」

3月28日の朝刊各紙は、先の千葉地裁判決に対して白井市が控訴する方針であることを報じています。
朝日新聞には『白井市の前市長が北総鉄道の運賃値下げ支援補助金を専決処分で支出したのは違法とした千葉地裁判決を受け、敗訴した市は27日、東京高裁へ控訴する方針を示した』との記事。
第三者的立場から見れば、高裁がどういう判断をするのか非常に興味があります。それは、首長の行う『専決処分』の重さが問われる裁判だからです。
議会は、已むに已まれぬ事情を理解して専決処分を認めています。そして、それは専決処分後の初めての議会で採決しても否決されることはないという前提があります。
もしかしたら否決されるかもしれないといった案件の専決処分を認めるわけにはいかないというのが議会の立場です。
一般論でしたら、これで「議論終わり」なのですが、白井市のケースは単純ではありません。
前市長の専決処分が住民の利益につながるという側面があった場合はどうでしょうか。
私は、あのとき前市長が専決処分をしなければ、間違いなく北総鉄道料金の値下げは実現しなかったと思います。
議会の意思が真っ二つに分かれ議決に至らなかったのです。そこで、前市長はキャスティングボードのように専決処分を行ったのだと理解しています。つまり専決処分は市民の利益につながったと思います。
ところが、さらにもう一段階、この問題を複雑にしているのが地裁の判決内容です。専決処分は認められないとして前市長に対して市への補助金の返還を求めているのです。仮に返還されれば、それもまた市民にとって利益になります。
すなわち、市が控訴した場合、市は敗訴すれば、前市長から補助金の返還があり市民の利益になる、市が勝訴すれば何も変わらないという不可思議な構造なのです。
北総鉄道運賃値下げ問題はまるで多次元方程式のような複雑怪奇な様相を呈しているのです。

人が亡くなるということ

このところ親しい方々のご不幸が続いています。桜の散る季節と重なり合い、何とも言えないさびしさがあります。
議員は、立場上常に定点にいます。私も「千葉県」の「松戸市」の「小金清志町」に住み、ご近所、町内、地域、市内、県内の多くの人たちと喜びも苦しみも共有してきました。
そのお仲間ともう会えなくなる、お声を聴くことができなくなるのですから、筆舌に尽くせぬ寂しさを感じます。
そして、それが平成2年からですから、お別れをした方のなんと多いことか。時に、愕然とすることがあります。
今月も幾度かのお別れがあり、スケジュールの都合でどうしても参列できないお別れもありました。
昨日、月刊俳句誌『鴻』4月号が届きました。
増成栗人主宰の作品『筆噛めば』を拝見していた時、一番最後の句が『兼志まだ身ほとりにをり霜くすべ』でした。
「あっ後藤兼志さんが亡くなったんだ」と知りました。
参列できないお別れがまた一つ増えてしまいました。後藤兼志さん、どうぞ安らかにお眠りください。

振り返ることの大切さ

東日本大震災のような災害への対策を考えるためには、言うまでもなく過去を振り返ることが大事です。
その時、医療施設はどのようなことになっていたのか。
その時、福祉施設はどのようなことになっていたのか。
非日常の大きな問題が起こった時に、より一層、制度の不備や人の能力の限界などが表面に出てくるものだと思います。そこから解決すべき課題が見えてくるのでしょう。
たとえば、朝日新聞に連載されている『プロメテウスの罠』の第十三章『病院、奮戦す』には、福島第一原発に近い医療機関でのすさまじいばかりの看護が語られています。
また、時事通信社の『地方行政』2013年3月18日号には『知的障がい者らの避難』ということで、岩手県山田町の「はまなす学園」の奮闘ぶりが取り上げられています。
現場を預かる医師や看護師や施設職員のプロとしての心意気やボランティアや自衛隊員、行政関係者等々の尽力ぶりが紹介されていると心が温まります。
その一方で、紹介されない膨大な数の『失敗』もあったこととと思います。むしろ、そうした失敗にこそ私たちが学ぶべき教訓に満ちているかも知れません。
神戸には『人と防災未来センター』のような情報を収集する拠点があります。東日本大震災においても、やはり同様の情報収集の拠点を設けてもらいたいと思います。
過去を振り返り、精密に災害下における看護、介護、避難を検証することが欠かせません。そのためには、嫌なことであれ、貴重な経験を収集する仕組みをつくらねばならないと思った次第です。

他人の疝気(せんき)を頭痛に病む

『他人の疝気を頭痛に病む』ということわざがあります。疝気とは腹痛などのことで、他人のあれこれを心配して自分が頭痛になってしまうとのことです。
逆説的ですが、議員はこのくらい他人の立場に立つことが大事なのですが、その一方で現実にはそれがなかなか難しいとつくづく思います。
ある席で、代議士が「これから教育委員会のあり方について国会で議論しますので、何か意見などがあれば遠慮なく言ってきてください」と発言しました。このとき同席した地方議員たちの何割かが「では意見をメールで送ろう」と思ったことと思います。
ところが代議士は「ただし3日以内にお願いします」と言うのです。
この瞬間、ほとんどの地方議員は「じゃあだめだ」と思ったのではないかと思いました。
このとき大勢の前ではなく、一対一のときに同じことを言われたらどうでしょう。頑張って意見を出そうと思うのではないでしょうか。また、3日以内ではなく、1週間や10日以内だったら数割の人は意見を出したのではないでしょうか。
人は、ちょっとした心の動きでまるっきり違う行動をとるものです。
さて、かつて自分の頭の中で自分でディベートをしたことがあります。テーマは『教員の人事権はどこにあるべきか』でした。
(頭の中の)Aチームは「現場を知らない都道府県に権限があるのはおかしい」と主張します。
(頭の中の)Bチームは「教育長ですら公募しなければならない市町村があるのに、市町村に任せて教員が確保できるのか。地域によって教育の質の格差が生じてしまう」と主張します。
この二つの立場から派生して、いろいろな意見が飛び交いながら結局結論は出なかったのですが、少なくとも政令市には相当程度権限を下せるだろうという結論は見えました。
このように何かテーマが与えられたら、それを頭の中でディベートしてみるというのは非常に大事です。
代議士の発言を聴きながら、そんなことを思い出していました。このあと実際に何人が意見を出したのか非常に興味があります。代議士に尋ねてみたいものです。