月別アーカイブ: 4月 2010

振れるものと振れないもの(第367回)

日経ビジネス4月26日号によれば、事業仕分け第一弾のときに関西国際空港への国からの補給金が2009年度90億円から2010年度ゼロと判断され、「市場が激しく動揺する場面があった。」という。
してみると事業仕分け第二弾で俎上に載る独立行政法人においても同様の場面があると見るべきだろう。
独立行政法人の経営がおかしくなれば当然財政投融資債の金利は上がる。
場合によっては上げても消化できないことがあるかもしれない。
そこで郵便貯金の上限を1000万円から2000万円に拡大して買い支えようということなのか!と言いたいわけである。
さて、千葉県においても「株式会社かずさアカデミアパーク」の民事再生法適用申請がなされた。
これまで18年間もの赤字続きながら同社が破綻せずにここまでやってこれたのは千葉県という後ろ盾があったからであろう。
その県の支援が無くなれば、経営が危うくなる県の出資団体が他に無いとはいえない。
そうした団体の資金調達や、そもそも千葉県自身の資金調達がどういうことになるのかやはり心配になる。
われわれの意図がどうあれ、あるいはそもそも意図があろうとなかろうと市場は何らかの判断を下す。
その判断は意外と厳しいものになることを覚悟すべきかもしれない。
地方分権とはまずこの資金調達からして格差が生じるわけである。
しかし、国と違って地方には郵便貯金のような気持ちよく振れる打ち出の小槌などはなく、振ることのできない袖しかないのである。

企業債は「負債」か「資本」か?(第366回)

【あまり大勢の人が興味を持っている話ではないでしょうがご容赦ください】
国県市町村の予算は現金主義で単式簿記である。
これに対して、病院事業や水道事業などは収益と費用を対比させ経営状況を明らかにする必要があるため発生主義・複式簿記となる。
とは言え、まるっきり民間の企業会計と同一というのでもない。
その一つが、債務の扱いである。
たとえば病院が改築や高額な医療機器購入のために企業債を発行した場合、それは貸借対照表の「資本」に計上されるのである。
企業債は借入金である。普通は「負債」だろうと思う。実際、一時借入金は「負債」なのである。
ところが、企業債は「資本」の部に仕分けされる。
おそらく多分、公営企業の債券は当該公共団体が当然払ってくれるものであり、取っぱぐれはないということから「資本」と同じというのであろう。
しかし、本当にそうなのだろうか?
昨今の公立病院の破たんを見ているといつまでも自治体が面倒をみるという時代ではなくなっているように思える。
総務省の地方公営企業会計制度研究会の報告書をみると、昭和44年報告書にも平成13年報告書にも「負債」として整理すべきと書かれている。
企業債が「負債」か「資本」かは古くて新しい問題だと分かる。
では、企業債は「資本」と「負債」のどちらに計上されたほうが住民にとってわかりやすいか?
単純に考えれば当然「負債」であろう。
しかし、仮に「負債」にした場合、今度は公立病院における赤字とは何という根源的な問題が生じる。
公立病院が採算の合わない医療を行わないとなれば民間病院と変わらず、公立の意味がない。
民間の一般病院が診ることができない小児救急などの不採算部門を担当するからこその公立だとも言える。
そういう問題を考慮せず、たとえば高度医療のための高額医療機器を購入して「負債」が増えた場合、これを経営判断の誤りと言えるだろうか?
平凡な医療のみに徹して、「負債」を増やさないことを良い経営と言えるだろうか?
「負債」の多さイコール経営の怠慢と見られてはたまらない。
結局、どういう公立病院にしていくのか、そしてその場合、赤字をどこまで許容するかはまさに住民が決めることなのだ。
すると、企業債を「負債」とするか、あるいは「資本」とするかについても、その病院を所有する住民が最終的に決めることになるのだろう。

農業を滅ぼす「ブレ」(第365回)

本年度から実施される米の戸別所得補償モデル事業について県下全域の農家の方々を対象にアンケート調査を実施した。
たとえば、『米の戸別所得補償制度によって農業経営は良くなると思いますか。』
『生産調整が事実上の選択制になったことについてどう思いますか。』
『戸別所得補償制度で農業後継者は増えると思いますか。』
そのほか『農地集積は?』『FTAは?』『米以外の補償は?』といった14項目にわたる課題について、米戸別所得補償制度がどういう影響を及ぼすと考えているかという調査である。
調査の結果、「農地集積が進む」と考えている農家は約2割、「農業経営は良くなる」と考えている農家はわずか8%、「農業後継者は増える」と考えている農家は実に2%という極めて深刻な実態が浮き彫りになった。
農業にとって何より必要なものは『長期ビジョンであって、これ無しでは営農計画も立てられず、農業経営などできるはずもない。

$ふじい弘之 オフィシャルブログ「レポートブログアメーバ版」-記者会見

                (調査結果の記者会見の様子)
高速道路の無償化が典型的な例だ。
民主党はマニフェストでは高速道路の無償化を高らかにうたっていた。
ところが、政権をとると全国の無償化はやめにして、ごくごく限られた遠隔地だけの無償化に方針を変えた。
その後、実は無償化ではなく上限を課す方針になり、さらには無償化が一転して値上げになり、その後やっぱり値上げはおかしいから見直すとし、さらにやっぱり一度決めたことだからと値上げに戻した。
猫の目も追いつかないスピードでみるみる方針や政策を変えていくのである。
このような政策の激しいブレが、高速道路だけではなく、普天間問題や郵政問題、はたまた中小企業への貸付モラトリアム法案など実に多岐に渡っていることを考えれば、農家の皆さんの不安は当然である。
今回のモデル事業では新規需要米(米粉用米や飼料用米など)には10アールあたり8万円という所得補償がなされる。
この補償額なら新規需要米への転作は進むかも知れない。
しかし、転作を進めた挙句に「財源がなくなりました。補償は打ち切ります。」となれば、それこそわが国農業は壊滅的打撃を受ける。
政策を変えるほうはいい加減なのだが、こちらは生活そのものがかかっているのである。それこそ死活問題なのだ。
民主党政権のブレがどれほど国民生活を振り回してきたか、どれほどひどい影響を悪影響を及ぼしてきたか、政権を担う人たちの猛省を促したい。

医師不足の動的平衡論(第364回)

「動的平衡」といえば福岡伸一先生である。生命についての考え方に軽くジャブを放ってくれる。
また、福岡先生の話は説得力がある。(少年時代に松戸にお住まいだったらしいので親近感もある)
動的平衡は当然われわれの社会にも当てはまる考え方だ。
現在という一時点で捉えれば、わが国は「医師不足」社会である。
そこで医学部の定員を増やそうとなるのだが、少数精鋭的育成を必要とする学部なので、その担当教授を確保するためにむしろ医療現場からベテラン医師がとられてしまう。
それでも、やがて医学生が育ってきて医師数が増え始める。
つまり、「医師不足」→「もっとひどい医師不足」→「「医師不足」→「医師増加」という流れになる。
日本社会のほうは高齢化がどんどん進んでいく。高齢化が進めば受診する人数、回数は増えてくるだろう。
高齢化は医師不足の方向へ働く
ところが、その一方で人口が減少していく。
仮に人口10万人当たりの医師数という捉え方をすると、先ほどの「医師不足」→「医師増加」の次の段階で今度は「医師過剰」になってしまう。
(そういう試算を実際に私はある方から見せていただいたことがある。)
人口減少は医師不足解消の方向へ働く。
福岡先生の動的平衡ではないが、
「医師不足」→「もっとひどい医師不足」→「医師不足」→「医師増加」→「医師過剰」
を流れとして厳密に検証していかないと政策として誤る可能性があるということである。
医学部の定員を増やすことは、教授などさまざまなポストの増加を意味する。
ポストというものは一度増やしてしまうとなかなか減らせないという指摘がある。
ましてや私立大学の医学部であれば強制的に減らせるものでもない。
以上のように、おそらく動的に捉えれば医師はいずれ将来的には過剰の時代になるのだろう。
すると問題は実は二つあって、一つは過剰の時代をどの時点に持ってくるかという点である。
二つには、「過剰」とはなにを持って過剰とするか、どの地域の過剰を過剰とみるかという点である。
つまり、たとえ日本全体で過剰だからといって全国に満遍なく医師がいるというわけではない。
首都圏では「過剰」でも地方では「不足」ということが十分起こりうる。
医師の地域偏在問題は意外に厄介なのである。
強制的な偏在解消は論外だ。やらせられている状態でモチベーションが保てるはずがない。
また開業医になるべく電話対応をしてもらうという仕組みも一歩間違えば過重労働になりかねない。
結果として、人口減少だけが解決策というのではではあまりに情けない。
やはり動的平衡に対応するのは、患者側も含めた社会の全体が賢くならないと難しい気がするのである。

本の紙カバー(第363回)

以前は(数十年前という相当以前ですが)、本を買うと私のお気に入りのカバーのかけ方をしてくれる書店があった。
今は、確かにいつも「カバーをおかけしますか?」と尋ねられるのだが、お気に入りのカバーのかけ方をしてくれる書店にであったことがない。
気に入らないカバーのかけ方であっても別にいやだとは思わないが、大抵いい加減なカバーのかけ方なので帰宅後に自分でかけ直す。
第一、幅がちゃんとあっていない。
だから、本をカバーで包もうと思っても表紙が入らない。折り直すしかないのである。
私のお気に入りのカバーのかけ方は、背表紙の上下を2ヵ所ずつ切れ目を入れる。
このピシッと決まるカバーは気持ちがいい。
北小金にあった辰正堂書店の店員さんがぴっぴっと鋏で切れ目をいれ、手品のような手際であっという間にカバーをかけていくのを小学生の私は毎回見とれていた。
そういう書店はまだ日本のどこかで生き残っているのだろうか。
ノスタルジー以外の何ものでもないが、私が本好きになった大きな要因の一つが書店のこうしたお客に対する気遣いだったのである。