民主主義国家の生命線は情報の公開である。
それなくしては、たとえ選挙制度が公正かつ公平でもまるで意味をなさない。
われわれが国を考えるときに拠りどころとするのは、やはり「白書」「青書」の類である。
ここの記述を元に現状分析をし、さまざまな政策検討を行うことになる。
このオオモトの「白書」「青書」の記述がいい加減だったとしたら、あるいは恣意的だったとしたら政策はメチャクチャになる。
そして、何を信じればよいのかという根幹の問題にもなる。
伊藤周平著「後期高齢者医療制度」(平凡社新書)を読んでいたら見過ごせない記述が出てきた。97ページである。
『医療費の見通しについて厚生労働省は、従来から2025年度の医療費予測を発表してきたが、1994年の「厚生白書」では、それが何と141兆円となっていた。その後、1997年には104兆円、2002年には81兆円、そして今回が65兆円と下方修正されてきた。』
ここまでいい加減だと、これは恣意的だと思わずにはいられない。
医療費の伸びの凄まじさが医療費抑制の理由だと政治家は訴えてきた。
その政治家はどう責任を取ればよいのだろうか?
私の手元に、私たちが作った医療制度の資料がある。
この資料の医療費は、2006年度28.5兆円、2025年度には56兆円となるとしており、まあ現実的な数値であるから責任問題には及ばないものの、仮に1994年度や1997年度、2002年度の白書から資料を作っていたとしたら責任問題に及びかねない。
こうした一つ一つの「白書」「青書」の検証を各省庁ごとに厳格にきっちりとやる ことが重要だ。
これからますます難しい運営を迫られる日本において、いまさら「白書」「青書」の検証をやらねばならないというのは全く愚かしくも情けない話だ。
しかし、民主主義国家として胸を張るためには、どうしてもやらねばならないことだと私は思う。
今般大きな問題となっている外務省の「核の密約」に象徴されるように、まさに官僚の信用は地に落ちてしまったのである。
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