俳人の山口青邨が昭和8年11月5日に書いた文章があります。『鎌倉山小春』という短文です。
たまたま読んでいましたら、ちょっと気になることが記されていました。
『明月院の谷戸の前を通ってゐる道は尚ほ山の方へ延びて行ってゐる、自動車も通れる道ではあるが、毛筆で太く一筆書き捨てた道のやうにその先は山の中へ淡く消えてゆく道であった。』
さて、私が気にかかったのは次の箇所です。
『むかうからたかし君が一茎の龍胆を細い指先につまんで顔のあたりをくるくるまはしながらやって来る。「向ふに何か面白いものがありますか」と訊くと「枯蓮の池があります」と答へる。ぶらりぶらりと行く、成ほど枯蓮や枯蒲の生えてゐる沼がある』
ここに登場する『たかし君』とは、松本たかしのことで宝生流能楽師の松本長(まつもとながし)のご子息です。
私が気になったのは、この谷戸の道は先がものすごい急坂なのです。すると、そんな沼があるとすれば明月院から遠くないところのはずです。
現代社会は、恐ろしいほど便利なインターネットを使って、実はそんな沼の存在を千葉のわが家に居ながら確認することができます。ところが、いくら探してもそんな沼はありません。つまり、昭和8年当時あった沼が、その後埋め立てられてほぼ間違いなく住宅になっていると思われます。
そう、3・11の際に液状化した我孫子市の住宅街と全く同じ構図です。おそらく、住んでいる方もそのご近所の方々も昭和初期にあった沼の存在など知る由もないでしょう。そして、鎌倉市もまた掌握していないでしょう。
偶然見つけたことではありますが、もし自宅近くに関する古い文書が残っていたら読んでみることも大事なのですね。
(写真は明月院への石畳です)
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