日別アーカイブ: 2010年4月21日

本の紙カバー(第363回)

以前は(数十年前という相当以前ですが)、本を買うと私のお気に入りのカバーのかけ方をしてくれる書店があった。
今は、確かにいつも「カバーをおかけしますか?」と尋ねられるのだが、お気に入りのカバーのかけ方をしてくれる書店にであったことがない。
気に入らないカバーのかけ方であっても別にいやだとは思わないが、大抵いい加減なカバーのかけ方なので帰宅後に自分でかけ直す。
第一、幅がちゃんとあっていない。
だから、本をカバーで包もうと思っても表紙が入らない。折り直すしかないのである。
私のお気に入りのカバーのかけ方は、背表紙の上下を2ヵ所ずつ切れ目を入れる。
このピシッと決まるカバーは気持ちがいい。
北小金にあった辰正堂書店の店員さんがぴっぴっと鋏で切れ目をいれ、手品のような手際であっという間にカバーをかけていくのを小学生の私は毎回見とれていた。
そういう書店はまだ日本のどこかで生き残っているのだろうか。
ノスタルジー以外の何ものでもないが、私が本好きになった大きな要因の一つが書店のこうしたお客に対する気遣いだったのである。

おかしなおかしな「国民の信」(第362回)

『自公政権末期は安倍、福田、麻生と国民の信を得ていない総理が続いた。それに比べれば国民の信を得ているのだから鳩山総理はマシ』という議論がある。
今日、ラジオで週刊A編集長(だと思う)が語っていたことだ。これを第一の命題 としよう。
さらにこうも言った。
『その鳩山さんを選んだのは国民なのだから、国民にも責任の一端はある』
これを第二の命題 としよう。
さて、第一の命題は正しいか?
まず、信を得ていない総理をあまり否定してはいけない。
国民の信を得た総理がいたとして、その人が不祥事で退任することはわが国では珍しくない。
過去には芸者との問題で辞任した人もいた。
鳩山さんだって多くの国民は辞任を願っているというのが最近の世論調査結果に出ている。
そういう信を得た総理が辞任すれば、信を得ていない総理が誕生する道理である。
不祥事を起こした総理が辞任しない方があきらかに間違っている。
次に言えることは、鳩山さんはいんちきで信を得た総理だということが明確になっている。
まさかあそこまで政治資金団体の収支ならびに収支報告がでたらめだとは誰も思わなかっただろう。
しかも、これまで秘書の悪さは政治家の責任であり、政治家は責任を取るべきと堂々と主張していた人と同一人物とは考えられない。
ここまでいい加減な人だとは国民は思わなかっただろう。
小沢幹事長のように政治献金で土地を買いあさる政治家がいるとは国民は考えもしなかったのとを同様の裏切りである。
したがって、週刊A編集長(だと思う)の主張する第一の命題には同意できない。
第二の命題は、騙して選ばしておいて責任を取れ!という暴言としか言いようがない。
騙された方が悪いのだとしても、騙された上に失政の責任まで負わされてはかなわない。第二の命題も不同意である。
結局のところ、国民の不幸なところは、平気で人を騙す鳩山さんタイプと騙した上に逆切れする週刊A編集長(だと思う)タイプとが、わが国の指導層だということなのであろう。