月別アーカイブ: 8月 2012

パワーと理性

幼いころ、普段は蟻も踏まないように歩く優しい男が、車の運転席に座るや否やいきなり凶暴な男に変身するというディズニーのテレビアニメを見て大笑いをしたことがありました。しかし、大人になると素直には笑えなくなります。
身体の大きな動物は凶暴で、体の小さな動物はおとなしいという一般論があります。
人が車を運転するということは、理性や感情と言う精神的なものはそのままなのに、自動車の強力で巨大な運動性能を入手したことになります。気持ちは小動物なのに、運動能力は大型動物と言うアンバランスがそこに生じるということかもしれません。
今回の原発事故への対応や未だに保有国が増える核兵器の状況をみると、「核」や「原子力」という巨大なパワーを制御するに足る理性や感情が残念ながら、未だに人には備わっていないのかもしれないと思ったりします。
原発被災地となった福島県の今後を考えれば、おそらくチェルノブイリ同様に人口が減少していくことは避けられないと思います。チェルノブイリでは死亡者数はそれほど変わりませんでしたが、出生者数はかなり落ち込みました。福島県も次の世代を託す子どもたちの減少に歯止めをかけるのが非常に難しいと推察します。
さらに、観光のようにほかの地域から人を呼び込む産業の将来展望は甚だ暗いと言わざるをえません。1次産業のような食べ物を扱う産業以上に3次産業が落ち込む可能性があります。
福島県の置かれた状況は、中長期的には広島、長崎以上に困難な道なのかもしれません。私たちは福島県民をどう支援するのか?国として福島県民をどう援助していくのか真剣に考えなければなりません。
これは極めて重大な事態であり、それをわが国、すべての国民が背負ってしまったことを重く受け止めなければなりません。
広島の平和の祭典の日、どうしてもこのことに思いを寄せざるを得ませんでした。
たった一つの原子炉の、たった一回だけの事故でここまでの事態を引き起こすのですから。

誰かが嘘をついている

『原発大国フランスからの警告』山口昌子著(ワニブックス「PLUS」新書)を読んでいて、「あれっ」と思った記述がありました。
それは、1995年の阪神淡路大震災に際してのフランスの救助犬派遣申し出についての記述です。
私の認識として、いち早くヨーロッパが救助犬の派遣を申し出たのに日本政府がそれを断ったということ(その後に村山首相が現地へ行ったのがあまりに遅かったので「犬より遅い村山総理」と揶揄された)が記憶に残っています。
では、何故、せっかくのフランスの申し出を断ったのでしょうか?
それについて、当時自治大臣だった野中広務氏は次の発言をしていることで、私は了解しています。

『スイス犬が海外からやってくるという話も弱った。犬一頭にドイツ語とフランス語の通訳をつけてくれと。おまけにお犬様と通訳が泊まるところをつくれ、でしょ。人間がちゃんと寝るところさえなくて、あの寒い中をテントで皆寝ているのにだよ。しかし、どうして海外からの援助を受け入れないのかというマスコミからの集中砲火と国民の世論の批判を浴びて、五頭だけ受けいれはしました。』(『差別と日本人』野中広務・辛淑玉著・角川ONEテーマ21新書)

野中氏の発言は、『お犬様』といった救助犬に対する偏見めいた発言もありますが、それよりもどうも腑に落ちない内容です。地震という異常な状況下にあって、スイスの救援隊が本当に通訳とか宿舎の要請をしたのでしょうか?私にはどうも不自然に思えるのです。

先の『原発大国フランスからの警告』にはこういう記述があります。

『フランス側は「救援隊に通訳は無用だ。宿舎など用意する必要もない。われわれは被災地に行くのだ。観光に行くわけではない。どんな環境、状況にも耐えられる訓練をしている。犬も同様だ」と日本当局を説得して、やっと入国が許可された経緯がある。』

スイス犬とフレンチ・ドッグの違いがあるものの、私にはフランス側の発言の方が正しいように思えてなりません。
言うまでもなく、救助犬は今ではごく普通に世界各地で活躍しています。実際、チリでもペルーでもアルジェリアでもヨーロッパから救助犬が派遣されました。
もし、野中発言が正しいとすれば、これほどの活躍ができるはずがありません。大災害のときに通訳を出せ宿舎を用意せよと言われれば、日本でなくともどんな国であっても受け入れ自体が不可能です。
したがって、野中氏の発言はどうも信じられませんし、もっと言うと、私はむしろ野中氏が嘘をついているというよりも野中氏に情報をあげた何者か(あるいは集団)がどうも怪しいと思っています。

歩かされて茨城

茨城へ行くとどうも歩かされてばかりです。
3・11の後の水戸市内の液状化調査では、県庁から水戸駅まで歩きましたし、今日は今日で龍ヶ崎文化会館から佐貫駅まで歩きました。写真は遥かなる佐貫駅への炎天下の道です。
今日は、関西大学の河田先生の講演があるということもあり、利根川水防大会に参加しました。
河田先生の講演は「ここへ来るのに4時間以上かかりました。そして40分話して、また4時間以上かけて帰ります。合計9時間です。ぜひ真剣に聞いてください」という発言から始まりました。
結論としては、琵琶湖のような大きな湖がない利根川水系は小さなダムを幾つも作ることによって水害を防ぐべき。これからの日本は現在の倍ほどの台湾並みの降水量を想定しなければならず被害想定は今と同じという発想を捨てるべき、というものでした。
会場は、しわぶき一つなく、みなが真剣に聞き入っている様子がひしひしと感じられました。
私も昨年の県議会において、東海豪雨を具体的事例として出しながら水害対策を訴えましたが、河田先生は私などよりはるかに強い危機感を持っておられました。
残念だったのは、流域他県に比べて千葉県議会からの出席が私一人しかいなかったことです。水防に対する受け止め方とリンクしていないことを祈るばかりです。
帰りの佐貫駅への道で、あまりの暑さに帽子をかぶりましたが、偶然にも鹿島アントラーズの帽子でした。やっぱり茨城では歩くことになっているのかもしれません。

オスプレイを笑えない

8月2日の南日本新聞に痛烈な囲み記事がありました。
『「空飛ぶ恥」と有力誌』という見出しで、米軍の垂直離着陸輸送機オスプレイについて『米有力紙タイムが「空飛ぶ恥」と題する記事を掲載するなど、米国内でも安全性をめぐる議論が交わされた。』と言う記事です。
私は、先の6月県議会で、オスプレイには依然として安全性に不安があることから普天間配備は反対だと表明しました。
そういう立場からすれば、タイム誌が『空飛ぶ恥』と書いたことに違和感はありません。しかし、その一方で「これはまさに他山の石であるという思いも強くしました。
それは、私たち日本の福島第一原発事故のことが真っ先に思い出されたからです。
あの福島の事故について、民間事故調査委や国会事故調査委やさまざまな団体が報告書を出していますが、事故について知れば知るほど「日本人として本当に恥ずかしい」と暗い気持ちにならざるを得ないのです。
そして、特に福島の人たちのあまりにもひどい状況をみれば、その暗い気持ちの底から熾火のような怒りが湧き上がってくるのを止めるのに必死の努力が必要です。
冷やし続けなければならない燃料棒を何故冷やすことができなかったか?何故電源が喪失したのか?
こうした主要課題にいたるまでに無数の細かな手抜き、いい加減がオンパレードで飛び出してきます。
たとえばベント。電源喪失で手動で行おうとしても、その方法が分からない、訓練したこともない。そもそもバルブの位置が分からない。緊急事態の中で、図面を取り寄せて初めて場所の確認をする。あきれ返るほかありません。
また原子炉にとって一番重要な水位計についても、他国がダメだとしてとっくの昔に更新したその古い計器をそのまま使っていた。
私たちは、一国の存亡を左右し、世界中を巻き込むほどの危険な装置の運用を、実は大ばか者集団にゆだねていたことを直視しなければなりません。そうした大ばか者にゆだねていた者もやはり大ばか者です。それを自覚すると自らに対して怒りがこみ上げてきます。
オスプレイを『空飛ぶの恥』と批判するのはたやすいことですが、私たちも今こそ本当に立ち直らねばと思うのです。