月別アーカイブ: 4月 2012

「放射能除染」ということ

本年1月に「放射性物質汚染対策特別措置法」が施行されました。
それによれば、1ミリシーベルト以上の放射線量が検出されたと「政府が判定した」地域については、国の負担で除染をするということになっています。
国の負担と言うことは、要するに国民の負担と言うことです。負担するお金の出所が、税金であれ電気料金であれ国民が負担することに変わりはありません。
いずれにせよその地域の人だけではなく、広く国民の負担によって除染することになりました。
除染については、国からはほとんど何も示されていませんが、基本的には二つの方法が考えられます。
一つは、天地返しですが、果たしてこれを除染と呼んでいいのかどうか。放射性物質は長い年月をかけて雨水などによって地下水に浸透していきますので、相当長い期間の監視が必要となります。
もう一つは、表土を削り取る手法です。
放射性物質は、大体深さ20cmまでのところにほとんどが留まっているとされていますので、私のイメージでは30cmくらい除去すればよいのかなと思います。
国は、5cmであっても8県の102自治体が対象ですから、費用は数兆円に及ぶだろうとしています。仮に、5㎝で5兆円なら30㎝では30兆円という計算になります。1年間の国の税収の3分の2ですから、これが実行可能なのかどうか疑問が生じます。まさかこれも民主党マニフェストのように「できませんでした」で終わりにならないようにしっかりと監視しなければなりません。実際、チェルノブイリではあまりのコストの高さに除染をあきらめたと聞いています。
さて、さらにその上でもう一つ大きな問題が立ちはだかっています。
除染した土をどこへもって行くのかという問題です。
放射線量を測定したうえで、問題がないとされた焼却灰や汚泥についても受け入れてくれる地域がありません。
ましてや『問題があるから除染された土』を受け入れてくれるところがあるのかどうか。
その一方で、PTAなどで自主的に校庭などを除染して取り除いた土については厳重な管理をしていない事例も見受けられます。
それもこれも、どこまでどのように対処すれば安全なのか、どこまでどのようにしてはいけないのかという判断基準がさっぱりわからないことの証左だと思います。
国は法律を定めるだけではなく、その法律に基づいた国民への情報提供、それも間違いなく信頼できる情報を公表しなければなりません。これにはそれほど大きな予算はかかりません。
3.11以前からスピード感がないと言われ続けてきて、未だに議論ばかりしてなかなか動かない政府の対応には本当に失望するのみです。

言葉の重さ、言葉の軽さ

民主党の政治家を見ていて、言葉の軽さが非常に気になっていました。
政権交代が実現なった時の総選挙での鳩山さんの言葉、菅さんの言葉、総理になってからのお二人の言葉。
もちろんそれだけではありません。
本会議での枝野さんの言葉、長妻さんの言葉、野田さんの言葉・・・・・・。
聞いていて、この人は何も知らずに語っているという気がしてなりませんでした。
たとえば『年金』です。
「年金財政は破たん状態」「民主党が政権をとれば任期終了の4年後には年金の抜本改革ができる」等々・・・
これらの言葉は、すべてわかっていて有権者を騙すために言っているのだと思っていましたが、実は何も知らない恐るべき『無知』からきていることに気がつきました。
なぜ気が付いたかと言うと、福島第一原発事故の記者会見で枝野さんはじめいろいろな人が登場しましたが、何も知らないのに知っているように語る、その語り口が全く同じだったからです。
先月、原田泰氏が新書を出しました。私は、この人の発想がお気に入りです。なぜかというと間違いなく『サムシング・ディファレント』すなわちモノの見方が非常にユニークだからです。
その本は、『震災復興 欺瞞の構図』(新潮新書)です。
このあとがきの最後の部分にこう書かれています。
『書いている途中で、何度も無力感に襲われたが、何とかこの本をまとめることができたのは多くの方々のお蔭である。』
この『(書いている途中で)何度も無力感に襲われた』と言う部分が、それこそ嫌になるくらい私も全く同感なのです。
この原田氏の言葉の重さがよくわかります。正しいこと(正しいと確信すること)が実現できない。間違いなく悪い方向へ行ってしまっている。でもそれが正せない。こういう見方は私の考えすぎでしょうか?
私も野党時代の国会質問をつくっていたものですから、毎日毎日どうしようもない無力感を感じていました。
政治家が自分の言葉に責任を取らない時代。もしかしたらとんでもなく不幸な時代に生まれ合わせたのかもしれませんし、いつの時代も程度の差こそあれ・・・・?

騙しとおすことはできないもの

我が国では、自殺者が毎年3万人を超えるということが大きな問題となっています。
その原因について、ある方は競争社会によるストレスだといい、ある方は不況のせいだといい、ある方はある種の栄養が足りないせいだといい、まさに百家争鳴状態です。
バブル崩壊の時期から自殺者が増えはじめていることから、国内の経済状態が何らかの影響を与えていることは間違いないと思われます。
最初にバブル崩壊仮説を聞けば、身についた浪費癖のせいで借金を繰り返し返済に行きづまるという理由がもっともらしく思えてくるでしょう。
しかし、これが正しい原因かどうかはだれにもわかりません。
自殺をしやすい年齢が40歳以上だということに着目すれば、たまたま団塊の世代の方々がその年齢に達したということが原因かもしれません。
3万人という多さがほかの国には見られず、日本だけの現象だとすると、この団塊世代年齢仮説(あるいは少子高齢社会仮説)がもっともらしく見えてきます。
しかし、これが正しい理由かどうかはだれにもわかりません。
政治家は、自殺の原因がわかりませんので、それらしく見える原因に対しての処方箋を政策として打ち出します。
その政策が効果を表すのがいつ頃なのかはだれにもわかりませんので、仮に自殺が減っても増えてもその政策との因果関係はわかりません。
つまり、自殺対策に限らずあらゆる社会現象についての政策は検証ができないという結論になります。
したがって、民主党マニフェストがいかにいい加減であっても、社会現象に対する政策だけであれば言い逃れはいくらでもできました。
ところが、実際にはそうそううまくはいきません。筆が滑ったというべきなのでしょうか、民主党は二つの失敗をしました。
第一に、社会現象だけではなく「予算の組み替えで16兆円の財源が生み出せる」などだれの目からもはっきりわかってしまうことまでマニフェストに書いてしまいました。
第二に、「八ツ場ダムは中止」「後期高齢者医療制度は廃止」「ガソリンを半額にする」などとできもしないこと、やらないほうがよいことまでを書いてしまいました。
やはり、人を騙すというのは一時的にはできても結局はばれてしまうものなのですね。

モラルハザードのさらなる広がり?

今朝の毎日新聞は、厚生労働省が企業年金の減額要件見直しの検討を始めたことを伝えています。
記事には『213基金は厚生年金の給付に必要な積立金もない「代行割れ」に陥っている』とあります。
こうした厚生年金の代行が問題になったのは、私の記憶では10年以上前のことだったと思います。代行返上するのに株式や債券を現金化するのかどうかで大騒ぎした記憶が残っています。
会計規則が変わったために、年金の運用如何が企業業績を左右するという本末転倒が起こり、資金に余裕のある企業年金ほど代行返上をしました。この段階で中小年金基金が取り残されました。
素人感覚では、運用見通しの水準を下げれば良いとも思いますが、仮に5.5%と言う数字はフィクションの数字だったとしても、これを実現しないと年金給付と言う約束が維持できません。現実にどれだけ運用しているかどうかではなく、そういう取り決めになっていているので、この水準を下げるとその分企業が穴埋めをしなければなりません。
そして、中小ほど代行返上ができずに取り残されてしまったために、現実の数字とのギャップが拡大してしまってにっちもさっちもいかなくなってしまったわけです。
さて、AIJ問題に端を発するこうした一連の流れを見ていると、二つのことが明確にわかります。
第一に、年金のように人の一生をはるかに超えるような長期間の運用をしなければならない制度については、やはり民間会社が運営するのは無理だということです。
ここから派生することですが、第二に、結局のところ運用が好成績の時期とうまくいかない時期が生じるわけですから、年金支給額の公平性を維持するためには年金の『積立方式』はあり得ないということです。
この問題をどう決着をつけるかがまた大きな問題です。
年金代行によるうま味を享受していた時期があり、享受していた誰かがいたのです。ここにモラルハザードという壁が立ちふさがります。
決着のつけ方によっては、政府はまた大きく信頼を損ねることでしょう。

変わりゆく街並み

近所を歩いていると思い出すことがいくつもあります。
小学生のころ、毎日のように近所の友達と『缶蹴り』をして遊んでいました。小金清志町2丁目56番地先にあった廃屋となった工場の中に潜り込んだりしたものです。この工場跡は今では戸建ての住宅となり、もちろん当時の様子などうかがうことはできません。
また、三ヶ月にあったT社の工場は巨大なマンションとなっていますし、小金も町のあちらこちらにあった銭湯も住宅になっています。
都市部の人口急増地域は住宅地となり地方は過疎地となる、という町の変遷はおそらくこれからも続くものと思われます。
さて、話は変わりますが、先頭集団を走っていたマラソンランナーが、一度脱落すると、再び盛り返すのは非常にきついことだと言われます。
社会構造の変化によって賑わいを失った地方が、もう一度復活するというのはやはり厳しい話なのかもしれません。
同様に、世界の中の日本は、おそらくすでに先頭集団からは脱落していて、第2集団のなかを走っているように思えます。
この流れをどう変えていくか、相当強いエネルギーがわれわれに求められているように思います。
そのエネルギーの源泉は何か?
私は、それは第一に『技術革新』であり、第二に『規制緩和』だと思います。
技術革新には、たゆまぬ努力が必要です。まさにド根性です。
規制緩和には、発想の転換が必要です。これは柔らか頭でしょう。
ド根性と柔らか頭という相反する能力を一人で具現するのは難しいかもしれません。しかし、チームなら十分実現可能です。
これからはそんな新しいチームスピリットの時代のように思えてなりません。