2月8日、石川信一議員と不登校の子どもたちの集まる施設を訪問しました。いろいろと考えさせられました。
人は誰しも生きていくうえで、何かしらの不満を抱えます。自分では解決不可能な不満もあるでしょう。そのときに、その不満のはけ口を他人にぶつけることはあるかもしれません。
人は一人では生きられません。社会があって初めて生きていくことができます。しかし同時に、社会の中で生きるということは、100%自分の思うままにはいかず、多少ながらも他人と折り合いをつけていくことになります。そこに不満の芽が生じます。その芽がやがて大きくなって他人に対して攻撃的になることはあるでしょう。
日本は民主主義社会ですから、最後の最後はものごとを多数決で決めることになります。
ある施設を建てることを反対しているAさんがいたとします。
しかし、全体の利益を考えた時にどうしてもその施設が必要だったとします。つまり、大勢の人はその施設を建てるべきだと思っている。
こういう場合、行政は全体の奉仕者ですからその施設を建てます。もちろん、議会の議決は必要です。
建設説明会でAさんは、建設担当者を批判します。建設担当者はその批判に耐えるのみです。
その後、施設は出来上がり、Aさんの心には不満が残ります。
全ての人が賛成する事業などほとんど100%ありません。常に一部の人に不満を与えながら利害調整するのが民主主義なのでしょう。
とは言え、利害調整のために、賛成の住民と反対の住民が徹底して議論しあうということもほとんどありません。
たいていは、反対の人たちに向き合うのは担当の役所の職員です。つまり、反対者の不満のはけ口のために、全体の奉仕者である公務員がいるという構図に見えます。
このようなことを考えていくと、次元は異なりますが、いじめをなくすということのあまりの困難さに慄然とします。
不登校の子どもたちの姿を見守りながら、そんな詮無いことを考えてしまいました。