日別アーカイブ: 2013年1月6日

大河津分水路その後

新潟県の燕市と長岡市の間を大河津分水路が流れています。
JR越後線の寺泊駅の隣が「分水駅」で、駅から南に2キロメートルほどのところに信濃川と大河津分水路の分岐点があります。
この分水路建設は頻発する大洪水に対処するために計画されました。
ウィキペディアには次のように書かれていました。
「1870年に工事が始められた。だが技術的な問題や地元の負担、及び水量の減少により河口部に立地する新潟港の維持が出来なくなる事を危惧した新潟町民等による反対運動や、これらの不満を糾合した一揆(悌輔騒動)が発生した。ついに1875年工事は中止になり」
しかし、「そこに1896年7月22日、西蒲原郡横田村(現燕市横田)地内に於いて「横田切れ」と呼ばれる信濃川の破堤による空前の大水害が発生。破堤した距離は300メートルにも及び、被害面積は18,000ha、家屋流出は25,000戸、その水は遠く河口近くの新潟市にまで達するほどであり、分水建設の声は高まるばかりであった。ついに政府は重い腰を上げ、1909年に工事を再開することとなった。」
「当時東洋一の大工事と言われ」「工事中には3回もの地滑りが発生し、特に3回目は掘削してきた分水路が土砂で埋まってしまうほどの大規模なものもあったが、13年後の1922年8月25日に分水路は完成し、通水した。」
さて、これで洪水が解消され万々歳だったかといえば、そうではありません。
洪水を防ぐために信濃川の水を日本海へ出してやるということは、水だけではなく川の水が運んでくる大量の土砂も分水路から日本海へ流すことになります。
すると、本来信濃川が作り上げてきた信濃平野そのものが存在し得なくなる可能性が出てきます。そして、土砂は今度は寺泊に運ばれますので、こちらに大平野が出来上がることになるのでしょう。
人が自然を改修・改変するということの本質がここにあります。
「ダムはダメ、河川改修でOK」という意見があります。私はそれに与しません。かと言ってダムだけでも大丈夫という意見にも与しません。
自然を相手にするには、その後の影響を可能な限り考え抜いて、もっとも望ましい影響ですむような様々な手法の組み合わせが大事なのです。近来の災害対策は、環境との調和を視野に入れざるを得なくなりました。
大河津分水路のような事例は今後ますます増えてくることでしょう。

お正月は「箱根駅伝」

お正月といえば、箱根駅伝でしょう。
今年もわが母校「創価大学」からは、学連選抜で往路4区を山口修平さんが走りました。
応援に行った人から、彼のお母さんは「あの子は体が小さく細いので風が強いと飛ばされてしまいます」と心配されていたとの話を伺いました。しかし、そのなかで1年生ながら区間6位と大健闘したのは将来が楽しみです。
さて、レースとして一番印象に残ったのは、復路の2位3位争いでした。
先行する日体大に対して、2位3位争いをしたときにランナーは何を考えて走るかです。
「何としても2位を確保しておかなければならない。駆け引きをしよう」
「ともかく日体大を負わねばならないのだから駆け引きで余計なエネルギーを使っている場合ではない」
この二つの考え方があります。ランナーが何をどう考えながら走っているのか、箱根駅伝が終わってからの楽しみでもあります。
もう一つ印象に残ったのは、往路優勝した時の日体大の監督の言葉です。
「嬉しいだろうが舞い上がってはいけない。復路も優勝なんて考えてはいけない。常に前に2、3校いるつもりでいく」
これは「勝って兜の緒を締めよ」「常にチャレンジャーの気持ちで」ということなのでしょう。
この監督は、昨年敗北した時に「自分が変わらなければチームは変わらない」とおっしゃっていました。さすが優勝チームの監督はすごいなと思いました。
実は、私は中学・高校時代のマラソン大会では常に学年1位でした。1位になるためにはどうしても駆け引きが必要となります。
駆け引きとは体力ではなく、精神面での戦いです。
今回の駅伝で、箱根の登りで1位を奪還した日体大の服部さんはインタビューでこう答えていました。
「山登りは心が折れてはダメです。強気で攻めていきました」
このように今年の箱根も感動的なドラマを見せてくれました。
勝ち負けを超越してすべての関係者にとって、そしてすべての人にとって本年が良い年でありますことをお祈りいたします。