日別アーカイブ: 2011年1月8日

岡本太郎氏生誕100年(第477回)

1月7日の読売新聞に『今こそ岡本太郎の精神』というコラムを見つけたときは正直びっくりした。
それは、数日前から同じようなことを考えていたからである。
私は、本年(2011年)が岡本太郎氏の生誕100周年ということも知らなかった。
岡本太郎記念館の平野暁臣館長の「時代が岡本太郎を求めている。今こそ太郎の精神が必要だ」と言う発言も知らなかった。
しかし、ここ数日、堺屋太一氏が『東大講義録 文明を解く』のなかで江戸時代の文化は「様式美」だと主張していたのがずっと頭の中に残っていた。
少し長いが、私が気になっていた個所を引用してみたい。
「戦国時代には、色々な剣術の流派が出来ましたが、江戸時代になると流派は固定してしまいます。徳川時代は新陰流、薩摩は示現流と決まっていて、あまり新しい流派はできません。お茶でも、織田信長から豊臣秀吉の時代までは、武野紹鴎から千利休へと改革が進みましたが、その後は裏千家や表千家など千利休の派閥が主流になる。絵画でも、この頃までは俵屋宗達や長谷川等伯など独創的な画家がいますが、その後は狩野派が主流になり、次第に様式化する。」
この堺屋氏の主張から、様式美の正反対の芸術とは何だろうと思ったときに、ぱっと頭に浮かんだのが大阪万博での「太陽の塔」だったのである。
堺屋氏と言えば「大阪万博」。大阪万博と言えば「太陽の塔」。至極自然な連想にすぎなかった。
太陽の塔ほど周囲に溶けこんでいない造形物はない。
むしろ周囲に溶け込むことを拒否しているのである。
そして、現在もなお芝生の公園の中で肩を落し気味にした白い巨塔は、それこそ唐突に突っ立っている。
 日本にはアニマル・スピリットが欠けているという指摘を受けて久しい。
車に乗らなくなった若者、海外へ行かなくなった若者の話題が出て久しい。
果たして、岡本太郎のような若者が現れるのか?
現れた岡本太郎は時代に受け入れられるのか?
ハードルは二つある。
こんなことを考えているのが、岡本太郎氏生誕100周年というのは、まったく味な巡り合わせとしか言いようがない。