月別アーカイブ: 11月 2009

八ツ場ダムについて言えること(第327回)

ダムの問題は厄介だ。
建設が決まってから工事着工までに何十年もかかることが珍しくない。そして着工してからもまだ数十年かかるのである。
八ツ場ダムのように57年、すなわち建設計画決定から半世紀もたってしまえば時代状況がすっかり変ってしまう。
私が中学生だった1970年前半には、多目的ダムはある意味で豊かさのシンボルであり、「ムダの反対、ダム」と合言葉のように語られていた。
ところが、国も自治体も厳しい赤字財政に陥り、ハコモノや巨大公共事業が悪とされる時代になるとダムすべてが否定されるのである。
八ツ場ダムが必要か不必要かと言われれば、私は「必要だ」と言うしかない。
なぜなら八ツ場ダムが果たすであろう治水効果を、八ツ場ダム無しに実現しようとすれば莫大な費用がかかるからである。
第一に、河底を掘るにしてもその莫大な土を捨てるところが国内に無い。
第二に、堤防の嵩上げは、現在でも5メートルでギリギリに守っている状況に対して、さらに2.5メートル上げねばならないとすれば破堤の危険性がある。
現在の状況ですら漏水が生じているのである。万一、堤防が決壊するようなことがあればそれこそ取り返しがつかない悲劇を生む。
第三に、堤防を外側に引いて河自体を拡幅するには住宅が密集してしまっていて補償金だけではなくさらに数十年の歳月が必要だろう。
利水については渇水期にはどうかという観点が必要だ。
本来、渇水期であっても銚子の河口堰に毎秒30トンの水を流さねばならないことになっている。
そうでなければ海水が逆流して塩害をもたらすのである。
ところが、渇水期になると実はこの30トンが確保できていない。
つまり、渇水期には本当は取水してはいけない水まで取水している現状なのである。
したがって、治水の面でも利水の面でも、もっとも効率的に予算を使うことを考えると八ツ場ダムの建設を進めるという結論となる。
それでも中止するというのなら、この論理を覆すアイデアや理由を明らかにして欲しい。

松戸管内の新型インフルエンザ情報(第326回)

松戸市医師会長の岡先生と松戸健康福祉センターの担当者から新型インフルエンザの話を伺った。
現在、新型インフルエンザは定められた医療機関に週何人の患者さんが確認されたかという定点調査を行っている。
そして、週に10人を超えると注意報、30人を超えると警報発令となる。
8月中旬に流行が始まったとされる新型インフルエンザは41週目の10月12日ごろに10人を超えた。
実は、このあたりから松戸管内を含む全国で感染が急拡大し、10月26日から11月1日の第44週に30人を超えた模様である。
「模様である」というのは、全国の数字が分らないからであるが、松戸管内においては37.48 人に達したというのである。
さて、そもそも新型インフルエンザについては、それがまさに新型であって、基本的にどのようなウイルスなのかほとんど分かっていない。
したがって、諸外国からの情報もばらばら、わが国厚生労働省の見解もくるくる変る。
分かっていないものについて多くの人が評価しようとするのでそうなってしまうのであろう。
ただ、現実の問題として夜間小児救急センターはじめ夜間救急外来では医療従事者に相当過重な負担がかかっている。
また、ワクチンがいつから接種可能なのかも今のところ分らない。
今回の新型インフルエンザが毒性の弱いものであることが救いである。
私自身は、ワクチンを打ちたいとは思わない。打つべき人打ちたいと思う人が打つべきであろう。
しかしながらこの感染の急拡大を見ると、岡先生のアドバイスに従って、何ヶ月かたって打ちたい人が打ち終ってしまって、その段階でもしワクチンが余っているようであるなら接種しようかと思った次第である。

ムダとは何か?(第325回)

10月下旬に共同通信が行った都道府県知事に対するアンケート調査の結果は興味深かった。
前原国交相が2010年度予算の概算要求で打ち出した道路の新規着工を原則凍結とする方針に対して賛成か反対かを問う設問であった。
調査結果は、知事47人のうち反対が36人(76.6%)、賛成が1人にとどまったというのである。
唯一賛成した滋賀県知事も「新規かどうかで凍結をするのではなく、必要かどうかで判断すべき」と批判的な意見を述べた。
だったら「反対」だろうと思うだが、それでも「賛成」だと言う理屈が私にはよく分からない。
それはさておき、ここでわれわれはムダとは何か をもう一度考え直さねばならない。
われわれがあるものをムダと判断するのは、おそらく自分にとってムダかどうかという基準だと思われる。
今回のアンケートでの反対意見として、北海道知事は「全国に比べ整備が遅れている」、宮城県知事は「地方の社会資本整備は十分ではない」と主張した。
ところが、テレビに出てくるコメンテーターたちは「地方の道路はムダ」という。
結局のところ、自分たちの使う道路以外はムダだと主張している構図に思われる。
私の富山の友人は北陸新幹線の早期建設を熱烈に主張するが、ほとんど乗ることのないと思われる私にしてみれば「これ以上、新幹線はいらないだろう」となってしまう。
しかしその私にしても、もし富山に住んでいたらもちろん熱烈に北陸新幹線を欲しいと思うだろう。
つまり、ある人にとってどうしようもなくムダなものが、別の人にとっては大事な大事なものという構図が普通なのである。
前原国交相のやり方では、最初に建設や導入してしまった人や地域が得をして、後回しにされた人や地域が損をするのである。
誰だって税金だけ取られてサービスを受けられないことには反対である。
ましてや県民の利益・利便性を考えなければならない知事であれば当然の反対だ。
ある道路が必要か不必要かを判断するのは難しい。
これまでの事例では交通量調査もあてにならず、交通量調査によって必要不必要を判断してよいのかと言う問題もある。
しかし、難しいからこそ政治で決めるしかないのである。
そして、政治で決めると言うことは、公開の場での議論によって決めると言うことなのである。
それを逃げてしまっては政治家は要らないといっているに等しい。
少なくとも前原国交相の機械的な方針では、何のための議会であり、何のための政治なのかと思うのである。