月別アーカイブ: 6月 2009

市民に愛されない警察には

わが家の近所に不思議と事故の多い交差点があった。
事故原因そのものは明らかだった。
自分の走っている道路が優先道路では無いにもかかわらず優先道路だと錯覚して交差点に進入してしまうのである。
事故原因は明らかなのだが、自分の前を横切る優先道路の幅員の方が何故狭く見えてしまうのかという点が不思議だった。
道路の両サイドの建物の配置なのか交差点のそれぞれの角の建物の配置なのか交差点の広さなのか、何が目の錯覚を生じさせるのか。
そこが不思議だった。
やがて信号機が設置され、この交差点の事故は大幅に減少した。
このように自分の走っている道路が優先道路ではないのに優先道路であるかのような錯覚を生じさせる道路、交差点、T字路はいくつもある。
優先道路を走っていてしばらくしてから左折する。
その左折した道がさらに幅員の広い道であるケースなども錯覚をまねき安い。
これまで走っていた優先道路が優先道路でなくなるというのはイレギュラーであり、通常の人間の通常の感覚ではかえって不自然に感じてしまうのだ。
そして、そういうポイントに交通警察官は狙いすましたように待ち構えていて「はい。一時停止義務違反です。」と罰金を取り立てる。
これでは愛される警察などありえない。
人間の錯覚を利用した違反者増産をしているだけである。
本当に危険だから取り締まっているのなら、信号機を設置して錯覚が生じたとしても事故が起こらないような措置をすべきなのは言うまでも無い。
取り締まる方も本当のところ後ろめたい気持ちで検挙するのだろうが、一番不幸なのはその道をもっとも利用し常に危険にさらされている近隣住民だ。
事故を防ぐという本来の目的に立ち返らない限り、市民と警察との協力関係の構築はいつまでたっても難しい。

マスク・スタンダード

5月16日に国内初めてのインフルエンザ患者が確認されたのが神戸市だった。
おそらく、ここからの広がりがそれほどでもなければどうということはなかったに違いない。
ところが、数日を経ずして感染患者は拡大していった。
テレビもほとんどの人がマスクを着用している神戸市内の映像を流す。
神戸に行く人が激減する。
実際、春日野道(神戸市中央区)の友人からの電話では三ノ宮の駅前ですら通行人がほとんどいないとの話だった。
私が、必ず一度は子どもたちに見せたいと思っている「人と防災未来センター」(神戸市中央区)など、この時期はひっきりなしに次から次へと修学旅行生が全国から来るのだ。
こちらも多分、確認はしていないが相当来場者が落ち込んだことだろう。
こうした事態は、もちろんインフルエンザ感染の恐怖に起因しているが、この恐怖の正体は「第一号患者の確認」よりも、その後の「感染者数拡大のスピード」だったのではないか。
日経ビジネス(6月8日号)に有馬温泉旅館共同組合長の悲痛な叫びが掲載されていた。
神戸の奥座敷・有馬温泉(神戸市北区)は連日キャンセルの嵐が吹き荒れ1億円を超える損失なのだという。
これはわが千葉県も真剣にならざるを得ない重大事態である。
現在の千葉県では成田空港関係者の感染が広がっている。
このこと自体は十分すぎるほど想定されているケースである。
空港のレストランやショップやラウンジで働く人たちは最も感染可能性の高い人だろう。
では、この人たちをどう守るのか?
この人たちを守ることがひいては千葉県全体も日本全体も守ることになるのである。
神戸の事例を見れば、要点は?第一号を出さないこと?感染の急拡大を防ぐことの二点に絞られるように思われる。
どちらも難題だが、働く人の命や千葉県観光をはじめとする経済損失を最小限に食い止めるにはこの二つが必要条件だ。
サービスの目的が接客である以上、インフルエンザの感染を防ぐにはマスク着用がどうしても必要だ。
したがって、一般通念としてマスク着用の接客を理解してもらうしかない。
世界のどこかでインフルエンザが発生したときにはこういう状況に立ちいたった場合は「空港内マスク着用」を実施します、こういう状況にならない限り「空港内マスク着用」を継続します という基準を定めるしかない。(これとてお金と商品お受け渡しを考えれば序の口の対応だろう)
残念ながら今のところはこのスタンダードを明確に決めて公表しておく以外に感染拡大を防ぐ方法はないと思う。
いよいよ南半球の国々は、これから本格的な冬、インフルエンザの季節を迎える。
わが成田空港は全世界に開かれていることを忘れてはならない。

チロリン村からひょうたん島へ

100年に一度かどうかは分からないが、金融危機に端を発した不況は世界中を席巻している。
デリバティブで重傷を負ったはずのアメリカよりも軽傷のはずのわが国が株式市場などで痛手を負っていることがしばしば指摘され、その分析が語られる。
エコノミストの解説は何が真実で何が虚構かまるで分からない。
ただ、こういう事態になると私はいつも思い出すことがある。
私が子どもの頃、大人たちはよく言っていた。「日本は5分の4が山地で、かつ資源のない国だ」と。
大人たちの言いたいことは、だから日本人は頑張らなければ生きていけず、人材を育てねばならないということだった。
つまり日本は他の(恵まれた)国とは違うということを繰り返し刷り込まれた。
日本人が、一般的に働くことをいとわず、みんなで力を合わせて頑張るという気質を持っているのは、おそらく資源の乏しさや食料生産基盤の乏しさに起因していたのだと思う。
そして言うまでもなく、努力と勤勉の結果として経済成長を遂げた現代日本にあっても「耕作適地が乏しく、資源がない」という基礎的条件は変わりようがない。
相変わらず資源、エネルギー、食糧は日本のネックなのだ。
したがって、これまで通りの豊かさを享受しようと思えば、われわれは「頑張る」という生き方をするしかないのである。
資源が豊かで耕作可能面積が広大な国と同じことをやっていては豊かさは実現できない。
だから今回の不況のように、世界中が一様に苦境に陥っているなかでわが国の脆弱さが出てしまっても不思議でもなんでもないと思うのである。
小学生のころ、NHKの番組で「ひょっこりひょうたん島」という人形劇があった。
そのなかで黒柳徹子の声の女性教師が登場して『勉強なさい?、勉強なさい?。大人は子どもに命令するよ、勉強なさい?』とわんわん歌うのである。
私はその歌を聴くたびに「無人島に流されてまで勉強か?!」と子ども心に思ったものである。
幼稚園児の頃の人形劇は「チロリン村とクルミの木」だった。
白黒の「チロリン村」の方がやっぱり幸せだったのかも知れないと懐かしむ今日この頃である。

第257回独り言は撤回します(第286回)

本年2月22日に書いた「買うものが無い時代」は撤回します。
どういう内容を書いたかと言えば、日本として買いたいものは何だろうか?
という問題意識から『円高の現在においては「資源」や「食料」を買うべきであり、破綻した外国の金融関係企業を買うことはない。』という主張でした。
これをなぜ撤回するかと言うと、今の日本が仮に食料を買った場合、10億人と言われる世界の最貧層が危機的な状況に追い込まれるからです。
『NATIONAL GEOGRAPHC』2009年6月号の特集「食料危機は克服できるか」に非常に気になる3つのグラフが掲載されています。
「増える需給」「減る備蓄」「上がる価格」です。
人口は右肩上がりに一直線であるのに食料生産はでこぼこで、しばしば人口の伸びに追いついていません。
1998年から2003年かけて食料備蓄はがくんと落ちたまま回復の兆しが見えません。
2008年4月に食料価格はピークになりましたが2009年以降も高止まりのままあまり下がりません。
してみると、現実に食料のあふれている国がこれ以上世界から食料を集めることは到底許されないことです。
したがって、主張のニュアンス自体は異なりますが、円高を利用して食料を買うとした私の発想は撤回いたします。
さて、ナショナル・ジオグラフィックの記事は、緑の革命と称された画期的な食料増産に貢献しノーベル平和賞を受賞したアメリカの農学者ノーマン・ボーローグの功績を懐疑的にみております。
緑の革命は本当に正しかったのか?と言うわけです。
何が正しくて何が間違っていたかなど到底分かりませんが、化学肥料、農薬、灌漑によって単一作物を大量に栽培することは感覚的には不自然に思えます。
同様に、牛や豚や鶏を大量に飼うことも魚や貝を養殖することも何となく不自然な気がします。
ではどうしろと言うのかと問われても名案があるはずも無いのですが、自分が恩恵を受けているにもかかわらず正直な気持ちの上ではまずいのだろうなと思っているのです。
こういう不自然と思われる方法で食料を増産すれば人間は増えます。
そして、人間が増えるとさらに増産が求められる。このいたちごっこが永遠に繰り返されるわけです。
つまり人類の前に立ちふさがるのは、どうやらウイルスだけではないと言うことのようです。