日別アーカイブ: 2010年7月22日

吉祥寺ブランドの思い出(第392回)

「吉祥寺ブランド」というのがあるらしい。
週刊東洋経済7月24日号によれば、住みたい街トップが吉祥寺なのだという。
分譲マンションの名称に「吉祥寺」という地名がついているか、「三鷹」という地名がついているかなどを調べると人気が分かるという。
さて、今から30年以上前の1977年夏のことである。
大学の夏山合宿の打ち合わせをするために吉祥寺のNさんを訪ねた。
Nさんは吉祥寺駅前のマクドナルドでバイトをしており、それが終わるのが深夜の0時過ぎだという。
私は、バイトを終えたNさんと一緒にNさんのアパートへ向かった。
深夜の北口駅前アーケードをとぼとぼと抜けていく。
私は大阪出身のNさんに「何で吉祥寺に住んでいるんですか?」と尋ねた。
大学は八王子だから通うのも大変である。
Nさんは「吉祥寺という街に憧れてなあ。」と答えた。
吉祥寺ブランドは大したもので30年以上前の大阪にも燦然と光り輝いていたのである。
やがて、五日市街道へ出て左へ。
さらに吉祥寺通りを右へ。
さて、ここから歩いても歩いてもNさんのアパートは現れない。
いい加減うんざりして「まだ先ですか?」と問うと、「もうじきや」とNさん。
Nさんはどんどん歩いていく。
とうとう青梅街道も越えてしまい、さらにしばらく歩いた畑の中にNさんのアパートはあった。
ようやくアパートに着いた私は厳かに宣告した。
「Nさん。ここは間違ってもあなたの憧れの吉祥寺ではありません。」
そう。練馬区関町北であった。

事業仕分けされていた沖縄県民と米国政府(第391回)

雑誌「WEDGE」8月号に掲載されたアーミテージ元アジア担当国務副長官の普天間基地移設問題に関する寄稿は皮肉に満ち満ちていた。
ブッシュ政権の国務副長官に寄稿文で皮肉られるだけなら、さほどの実害は生じないだろう。
しかし、『アジアの大半の国が日本政府に対して、日米関係の膠着状態を早急に解決するように要請したにもかかわらず』未だに膠着状態がとけていないばかりか、秋以降へと決着がどんどん先送りされてしまうとさすがに心配になる。
さて、私がアーミテージ氏の記述の中で興味深く思ったのは以下のくだりである。
『米国側は一度として、なぜ辺野古への基地移設が受け入れられないのか説明されなかった。』
『米国人にとっては、日本の首相が現行案に代わる選択肢を持たずに日米合意を破棄するということが、理解しかねることだった。』

このアーミテージ氏の記述は、八ツ場ダム建設中止についての民主党・前原国交省の対応とまったく同一ではないか。
八ツ場ダムのときも地元住民や首長以下都県関係者に対する、『なぜ中止なのか』という説明は一度もなく、ダムに代わる治水、利水案は全く検討されていないにもかかわらず、『いきなり中止』だと宣言したのである。
これまでの政治手法を見ていると国内の有権者に対してであれ、外国の政府に対してであれ、自分たちの結論だけを説明なく押し付けることが、民主党の体質であることは間違いない。
しかも、このやり口や体質はあることを想起させるではないか。
そう『事業仕分け』とまったく同じやり口なのである。
つねに相手の言い分には耳を貸さない。
相手が発言しようとしても無理やり遮る。
最初に結論ありきで、それを徹底的に押しつける。
まったく同じやり口であることに気づいてみると、少しばかり恐怖感がわいてきた。
人はこれを独裁者と呼ぶのではないか。