ソマリランドの住民たち(第310回)

ナショナル・ジオグラフィック9月号の記事「絶望のソマリア」は衝撃的だった。
しかもあまりにも知らないことが多すぎてしばらく茫然自失状態であった。
『2009年初めにエチオピア軍が撤退した時点では武装勢力の攻撃は下火になると期待されたのだ。イスラム穏健派の諸派の間で閣僚ポストを分け合うなどの交渉がまとまり、国連や欧米諸国の強力な後ろ盾を得て、幅広い連合による、新たな暫定連邦政府が樹立された。』しかしその後、武装組織が『中部と南部の多くの地域を制圧し、新政府はまともに機能できずにいる』。
同じ民族の国である北部のソマリランドでは『まず見られないのは暴力だ。武装解除が実現したからである』。
一方、『ソマリアにいれば、世界がこの国を見捨てたように感じるかもしれない』。
ソマリランドでは希望が見え、建設の槌音が首都に響く。かたやソマリアは無政府状態で暴力と死と絶望の国だ。
何が違うのか?決定的に違うのは治安力である。
やはり国の秩序を維持するためにはある程度の武力(警察力)が欠かせない。
イスラム過激派が武装し派閥争いを繰り返すソマリア。
このソマリアの状態を見て、われわれはどう考えるだろう?
何と馬鹿げたことを繰り返しているのか。もういい加減にやめろ!と叫ぶことはできる。
しかし、少しだけ、ほんの少しだけ視野を広げてみたい。
日本という国を離れて、視点を少し高みに上げてみたい。
日本列島からアジアへ、アジアからから世界全体へ。
何が見えるだろうか?
チベットやウイグルでの民俗弾圧もパレスチナ紛争も北朝鮮の餓死者も何もかも救えていない事実が見える。
世界全体を見れば、そこはまさに無政府状態なのだ。
現代の世界は、武力と武力がぶつかり合い、国力を傾けても核兵器開発を推進し、国民を犠牲にしても軍事力を増強するのが国際社会の常識だとか。
それに対して先進国もほとんど何も出来ないし、国際社会の話し合いの場である国連は5大国を中心に各国が国益をいかに確保するか競う場のようだ。
ソマリアも国際社会も構図は同じで、ただ大きさだけが違う気がしてならない。
われわれに日本人は、とりあえず今のところソマリランド側に住んでいるというだけの話なのである。


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