東北地方太平洋沖地震」カテゴリーアーカイブ

島崎先生の話の続き

日本活断層学会による根尾谷巡検の折、島崎邦彦先生が気になることをおっしゃっていました。
一つには、千葉県の銚子沖で沈み込む太平洋プレートのさらに下にフィリピン海ープレートが沈み込んでいる。したがって、千葉県沖は非常に複雑なプレートの動きになっていること。
二つには、元禄地震クラスの地震も関東大震災クラスの地震も歴史間隔ではまだ大丈夫なはずなのだが、3月11日の大震災が時間軸を狂わすエネルギーを与えた可能性がないとは言えないこと。
そして、房総沖でフィリピン海プレートがゆっくり沈み込むスロースリップがが観測された。
大要以上のようなお話でした。
今朝の新聞各紙は、この最後の部分の『スロースリップ』を一斉に取り上げました。
すぐにどうという話ではないとは思いますが、本年6月の代表質問で訴えましたように、観測体制の整備をさらに訴えてまいりたいと思います。

臨海部の防災対策をどうするか

今朝の千葉日報に次のような記事が掲載されました。
『初動体制チェックへ手引き 石油コンビナート防災で県』
千葉県石油コンビナート防災アセスメント検討会議の報告です。

私は、ずっと京葉臨海工業地帯の防災をどうするかに頭を痛めていました。
3・11の大地震は、東北沖が震源だったにもかかわらず、東京湾奥へも3メートル弱の津波が押し寄せました。
現実の問題として、東京湾については高潮のハザードマップすらないことはこれまでも書いてきたとおりです。
そこで、私は6月議会の代表質問で県を質したのです。
『仮に、津波火災が本県臨海部で起こるとすれば、石油コンビナートの損傷、被災船舶からの燃料流出、高温反応炉の浸水による爆発、冷却すべき化学物質が低電によって常温発火、(略)といった出火原因が考えられます。(略)そこでお伺いいたします。(略)第4に、臨海部の工業地帯の石油化学事業者などへ有害物質流出防止対策の立案を指導すべきと思うが、どうか』
石油コンビナートの損傷への対応として、もちろん初動体制も重要です。しかし、それと同時に、有害物質が流出すると船舶が近寄ることすらできませんので、初動以前の取り組みも必要だと私は訴えたのです。
東京湾の脆弱さをどう克服するか?
この問題については、二度、三度と、しつこいくらいに取り上げなければならないようです。

白子町の津波対策

300年以上前のことですが、九十九里浜を中心に当時は安房、上総と呼ばれていた千葉県は大きな津波被害を受けました。元禄地震による大津波でした。
白子町では1159人が亡くなったと言われております。その白子町に、総務防災委員の阿部俊昭議員と訪問し、地域の方々も交え、林和雄町長から防災対策の取り組みについて伺いました。
湾や河川は波状段波が襲ってきますので、白子の場合は南白亀川がやはり弱点です。元禄の際は、津波が4キロも遡ったとされています。
そのために、河川堤防のかさ上げも必要でしょうし、海岸林の整備も必要でしょう。住民への情報伝達や避難場所への誘導表示なども必要です。
ハード面、ソフト面の難問が山積する中で、一つの町が限られた予算で安全安心を確保することは容易ではありません。
県としてもできる限りの応援をしていかねばと思います。
町長は、今回の震災によって、参加率の悪かった防災訓練などへの参加が増えたといいます。
また、防災無線が鳴ると「うるさい」と苦情が来ていたのが、地震以降はぱったり無くなったといいます。
防災への関心が今ほど高まっているときはありません。そう前向きに捉えて施策の充実を図っていこうと思います。
★写真は、町役場からの帰りに白子の海岸へ立ち寄った時のものです。いつまでも平穏な海であることを祈るばかりです。

二つの想定外

東日本大震災で建設された仮設住宅の住環境について、岩手、宮城、福島3県の間で大きな格差があることが報じられました。
9月30日に開催された第2回『応急仮設住宅の居住環境等に関するプロジェクトチーム』での報告です。
3県で仮設住宅が建設されているのは50市町村です。
このうち、たとえば福島県では大半の仮設住宅に風除室が設置されているのに対して宮城県では1%だといいます。
断熱材についても岩手、福島が寒冷地対策として取り組んできたのに対して、宮城県では皆無だといいます。
本来、行政分野ではリードしてしかるべき宮城県の取り組みが遅れているのはなぜでしょうか?
それは平時の発想で対応しているからなのだと思います。
住民ニーズがどこにあるかをキャッチするのは、より現場に近いところです。すなわち県よりも市町村だということになります。そこで、宮城県では他の2県よりも市町村へまかせた部分が多かったのだといいます。
平時であれば、それは正しい発想なのですが、大震災を受けて市町村が著しく行政能力を低下させている現実にはそぐわなかったのです。
実はもう一つの誤算がありました。DMATです。
阪神淡路大震災の教訓を受け、大規模災害が発生した現場に48時間以内に駆けつける『災害派遣医療チーム』です。
石巻市では幸い山側に移転していた日赤病院は無傷でしたので、そこを災害医療の拠点に決めDMATが派遣されました。
しかし、阪神淡路大震災とまるで異なり、そこにはDMATを必要とするような急性期の多傷病者はいなかったのです。
今回の巨大津波による初期の医師の役割はほとんどが検死でした。「DMATの医師たちにも検死をしてもらわざるを得なかった」と現場の医師から伺いました。
災害をただただ悲しみの場としてとらえるのではなく、私たちは教訓を学び取らねばなりません。
大変書きにくい話で、ずっと書かずにおりました。しかし、やはりあえて書かせていただこうと思った次第です。

3月11日に

人と会うと、「3月11日には何をされてましたか?」と尋ねてみます。
ほとんどすべての人が澱みなく答えてくださいます。それだけあの日、あの時が私たちの胸に焼き付いています。
千葉県では、よくオリエンタルランドの危機管理体制の素晴らしさが言われます。
「キャスト」と呼ばれるアルバイトの人たちが園内にいた7万人の安全を守った話が伝えられています。
そのエピソードは素晴らしいものばかりです。しかし、私が最も凄いと思ったのは、年間160回もの防災訓練を行っていることにつきます。
こうした地道な取り組みがあって初めて7万人もの安全が守られたことを忘れてはならないと思います。
今日は、香取市のY議員から県立佐原病院の話を伺いました。
その日その時、佐原病院では2つの手術が行われていました。
大きな揺れの中で、ともかくも患者さんが手術台から落ちないように必死で押さえたそうです。
手術室も停電しましたが、やがて自家発電が作動して、無事に手術を終えました。
佐原病院は昭和30年の開院、現在の本館は昭和51年の建築なので耐震に問題があります。
そこで本館の患者さんを新館に移すことになります。歩けない患者さんは担架で運びました。
新館の床は蒲団が敷き詰められ、食事は手渡しで配りました。
県立病院で最も被害を受けたのが佐原病院でしたが、マニュアルにない手を次々と打ち、見事に団結して震災を乗り切ったとのことでした。
災害大国のわが国はこれまでもこうして危機を乗り切ってきたのだと思います。これからも必ず乗り切っていけることと思います。
私たちは、あの日あの時どういう行動をとったのか、どう復旧・復興に取り組んできたのか次の世代に語り継いで行きたいと思うのです。