食料自給率50%のもつ意味(第225回)

昨日の公明新聞に「食糧自給率50%の早期実現」を目指すと言う囲み記事があった。
これは、わが党が6月19日に発表した『食料自給率50プラン』(「しょくりょうじきゅうりつごーまるぷらん」と呼ぶ) に対応した記事であるが、自給率50%の達成は極めて重要なわが国固有の課題である。
その一方で、経済学や経済界の中には「競争力のある分野に力を注ぎ、競争力のない農林水産業は外国に任せればよい」と主張する方々も少なくない。
そしてその傍証として、強い競争力を保持し経済発展している国々がおしなべて自国の強い産業に特化している事例を掲げている。
なるほど、たとえばシンガポールの経済競争力がアジア第一位となったのも、農業を捨てITやバイオなど知識集約的産業分野の育成に重点を置いてきたことは事実のように思える。北欧諸国の成功も同様の要因かもしれない。
しかし、私がこの主張に賛成しかねるのは、わが国が人口1億人を超える大きな国であり、それらの小さな国と同じように産業特化してはいけないスケールなのではないかという思いがあるからである。
そもそも人口が1億人規模の国で、これほど食料自給率の低い国があるのか?これほど農林水産業分野の高齢化が進んでいる国があるのか?なぜそのような事態に陥ったのか?様々な疑問が沸き起こってくるのである。
わが国のように大きな人口規模の国の自給率が著しく低いとなれば、食料は当然のように輸入せざるを得ず、つまりは世界中から集めてくることになる。
世界には8億人が飢餓にさらされ、飢えによる死者が一日4万人と言われる現実の中で、この自給率の低さは許されるものではない。
様々な産業分野がある中で、農林水産業については他産業に比べて所得が増えなかった。
所得が増えない産業には後継者は育たない。
だから比較優位の産業で勝負しようという意見が出る。
至極自然の論理的思考である。世界がすべて経済原則で動いているのであれば。
しかし、こうした産業発展論の議論以前に、世界全体の食料危機にもっと思いを馳せねばならず、それが持つ重大な道義的意味やさらには政治的意味についても思いを馳せねばならないと思うのである。


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